二大企業大激突Ⅱ!! スクウェアvs任天堂 中編
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7.決別 ファイナルファンタジー
まず、スクウェア創業者宮本の元へ坂口は向かった。社長を降りたといっても彼は大株主であるし、このような大決断には彼の許可がなければいけなかった。
坂口のプレゼンが終わると、宮本は「この方が良いゲームを作れる、という自信があるのなら……断るのはおかしいだろう。是非、やるべきだ」と答えた。宮本はあいからず、博打を打つのが得意であった。
宮本の許可が下りた後、坂口は京都へと向かった。このとき宮本本人も連れ添った。リードプログラマーの成田賢も連なった。
京都に着いた彼らは、任天堂の山内溥社長に歓迎された。冷えたビールと高級弁当が用意されていた。そしてお茶も差し出された。小言も嫌みも罵声もなく、山内社長は彼らの決断を肯定してみせた。彼らが去るときには軽く背中を叩き、「幸運を祈る」とまで言って見せた。
とても奇妙な光景だが、実は任天堂の精神から見るとさほどおかしくなかった。そもそも任天堂は、最初から「自社のゲームソフトを売るため、自分でハードを作っている会社」だからだ。ファミコンを作ったのは自社のゲームソフトを展開するためで、そこからハドソンとナムコというイレギュラーな存在が現れ、サードパーティへと門戸を開く羽目になった。元々構想になかったため、契約書に本数制限が含まれていないことに後から気がついたくらいだった。スクウェアにニンテンドウ64のスペックの不備を指摘されても、まずは自分たちがつくるソフトが第一だった。スクウェアの得意な高画質ムービーを収録するために、わざわざ遅いCD-ROMを採用することも考えられなかった。
スクウェアは任天堂にとって非常に貴重な右腕ではあるが、同時に絶対に必須な、逃してはいけない企業……というわけでもなかった。彼らが出て行く、というのならば、止める必要を感じなかった。もしかしたら山内は心情的に「あんにゃろうめ、今までの恩を忘れやがって」と思ってはらわたが煮えくり返っていたかも知れないが、それを表に出すことなく、気持ちよく見送ったのだ。
スムーズに任天堂との決別は済んだ。この流れは驚くほど短期間に行われた。1995年9月に入社し、米国スクウェアソフト社長になった丸山嘉浩は、入社時水野社長に「ウチは任天堂と共にある。ウチで働くということは、任天堂で働くことと同じなんだ」と言われた。実際、9月にはスクウェアは任天堂とジャストシステム(ワープロソフト一太郎や、日本語変換ソフトATOKの会社。95年当時はかなりのシェアを誇っていた)と提携し、64DD向けのソフトを開発する合弁会社を立ち上げると発表していた。が、丸山の入社の翌週、水野社長は「やはりソニーに移籍したほうがいいんじゃないか」と漏らしていた。そして年末には、社員一同が次世代プラットフォームがプレイステーションになることを知った。翌年1月には、大々的にCMが打たれた。全国の家庭のTVに、「FFⅦ 始動。」の文字が浮かんだ。
ゲーム業界に衝撃が走った。この時代、「次世代ゲーム機戦争」とマスコミが大きく取り上げていた。王者任天堂に、挑戦者セガ、そして超新星SCEのプレイステーション。一体どこが勝者となるのか? 業界人の見立てがゲーム雑誌以外の雑誌や、新聞に載り、非ゲーマー層の興味をそそった。FF、DQを有する任天堂がやはり優位だ、いや、ニンテンドウ64の発売の遅れは致命的だ。95年の年末商戦では暫定一位はサターンだ、このままサターンが粘り勝ちするかもしれない、そんなコメントが溢れていた。
スクウェアの移籍は一気にその情勢を塗り替える一撃だった。「これはプレイステーションの勝利となるぞ」という見方が増えた。1996年3月にはプレイステーションは24800円に値下げされた。これで一気に出荷台数はうなぎ登りとなった。
しかしスクウェアは任天堂の元から去って行ったが、任天堂はあくまでライバルであって、敵ではなかった。そのことは坂口らも十分わかっていた。今の彼らがあるのは任天堂のおかげだ。仁義は尽くさねばならなかった。
そこで坂口はひとつ案を練った。移籍した理由をあくまで「CD-ROM」一本に絞ったのだ。ニンテンドウ64のプロトタイプでスピードが出ないことは隠匿した。「スクウェアが必要としたのは大容量と低価格のCD-ROMです。だから移籍しました」という名目にした。その後、ニンテンドウ64が発売され、スーパーマリオ64が当時としては比類ない3Dアクションを実現し、スクウェアの技術陣は感嘆したが、後悔はしなかった。やはり、我々が理想とすることは、ニンテンドウ64では実現できない。その結論に変わりはなかったのである。
任天堂も、スクウェアも、お互い仁義を尽くそうと努力していった。しかしその仁義の方向性が、次第にこれからずれてくることを、二社は思い知ることになる。1996年、スクウェアは新しく四国銀行出身の武市智行を社長とし、新体制でプレイステーションに臨んだ。
8.誕生 デジキューブ
プレイステーション版FF7の開発がスタートした。スクウェアが初めて作る、本格3DポリゴンRPGである。この時代、ポリゴンを使いこなしている会社といったら間違いなくセガだった。バーチャファイターの影響力はとてつもなく強く、ポリゴンの新しい活用方法の大正解を引いて見せた。まずセガを越えねばならなかった。
そのための投資をスクウェアは惜しまなかった。例えばセガが100万円のマシンを導入したぞ! という話を聞いたとする。スクウェアはどうすべきか? 決まっている。1000万円のマシンを購入するのだ。
デザイナー一人に一台のワークステーションが用意された。SGIへの注文台数は最初4台だったが、PS1に移行することが決定したあと、200台の発注をかけた。これにはさすがにSGIの担当者も驚いた。
1台700万円のハイエンドワークステーション、「SGI・Indigo2」が次々にスクウェアに並んだ。そのほか、Onyx・Challengeといったサーバーを1億円以上の費用をかけて導入した。ソフトウェアも合わせて最先端のものを導入していき、新規投資費用としては20億円以上を突っ込んだ。その上、そこら中に200万円のPS1用開発キットが置かれていた。廊下の段ボールに突っ込んでおかれていて、誰でも自由にそれを扱うことができた(セキュリティはないに等しく、盗もうと思えば容易にそれが行えた)。
この効果は大きかった。様々な人材が最先端の環境をもとめてスクウェアに入ってきたのだ。FF7は凄まじい勢いで開発を進めていった。スクウェアは彼らの能力に見合った給料を用意した。人件費も爆増したが、スクウェアは必要経費として割り切った。
そしてスクウェアは新たな道に進もうとする。自社流通の道である。
もともとスクウェアは初心会流通を用いてゲームを販売していた。初心会はあくまで任天堂の一次問屋の集まりであるため、SCEへと移籍する場合は取引ができなくなる。この時代、SCEが自前で流通を行っていた。SMEの工場でプレスされたCD-ROMはソニーの流通会社ジャレード(現在は株式会社ソニー・ミュージックソリューションズ)を通して全国の小売に配達される。
プレスする量はSCEとサードパーティで相談して決める。しかし最終的な決定権はSCEにあり、しかも在庫少なめ、リピート重視を掲げていたので初期出荷は非常に少なかった。これに反発し、飯野賢治が96年3月にエネミーゼロ事件を起こして離反した。以後、SCEはサードパーティの自前在庫を許すことになる。
スクウェアがSCEと提携した場合、当然このSCE流通を使う……とはならなかった。スクウェアも自前の流通を、別途立ち上げると宣言した。これが「デジキューブ」である。
デジキューブとはスクウェアがSCE流通を使わず、今までのゲーム屋でもなく、コンビニに対してゲームソフトを直接卸す計画である。この計画にセブンイレブンが乗っかった。配送はセブンイレブンが行い、SMEの工場でプレスしたCD-ROMを全国のコンビニに流す。セブンイレブンだけではなく、ファミリーマート、サークルKサンクス、と大手コンビニの多数と契約することができた(唯一ローソンだけは極一部の取扱だけに限られたが、これで人口の9割以上がカバーできた)。出資は100%スクウェアだ(後年にはナムコ、カプコン、エニックス、SCEなどが出資を行った)。
このデジキューブの利点はスクウェアにとって「どこで、何が売れているか?」が明瞭なことだった。POSと連動して売上データが直接スクウェアに届く。初心会流通は二次問屋を経由した場合、いったいどこでどれだけ売れて、どこで在庫が残っているか、スクウェアにはさっぱりわからなかった。それでいて当然初心会の取り分は小売価格に転嫁される。スクウェアは全部自分で管理すれば、取り分は増えるし、小売価格も下がる。データも入ってくる。良いことづくめに思えた。
これにはCD-ROMは必須だった。任天堂が採用していたROMカセットは発注から三ヶ月かかる。例えば小売が品切れを起こし、追加発注をかけたとする。二次問屋で在庫を持っていればよし。二次問屋がなくとも、初心会内に在庫があればそれで対応できる。初心会内にも在庫がない場合はスクウェアに発注がかかるが、スクウェアにすら在庫がなければ任天堂からくるのは三ヶ月後になる。細やかなリピートにはCD-ROMのほうが明らかに対応しやすかった。CD-ROMの場合は一週間ほどでリピートが届いた。
デジキューブはPOSデータを元に、どこのコンビニにどのソフトをどれくらい送るか決める。CS放送をつかい、販促広告を常時コンビニ内に用意する。TVCMも大々的に行い、FF7からこれが始まることを強調した。FF7の初期出荷の8割がこのデジキューブを使って送られ、「ゲーム買うならコンビニだ」のキャッチコピーがTVを飾った。
このデジキューブの社長には鈴木尚がついた(兼スクウェア副社長)。
鈴木はインタビューで初心会流通の不満を露わにした。どこで何が売れているのかわからない、不良在庫の数もわからない、そのうち初心会グループ内部で問屋の倒産がはじまったので、手形が落ちない可能性も出てきた、もっと革新的な流通が必要だ……。
その一方で最低限の仁義を鈴木は忘れていなかった。デジキューブの手本として、NOA(Nintendo of America)のNIMS(Nintendo Inventory Management System)を上げた。NIMSはアメリカ全土の小売店と、NOAの倉庫をコンピュータで繋ぎ、あらゆる小売店の在庫数をリアルタイムで監視して、そして在庫数が規定量を下回ると倉庫のロボットが勝手に動き、棚からソフトを出して小売店に送る自動化システムのことである。これにより二日間でNOAはアメリカ全土の小売店にゲームソフトをおくることができた。我々の目指すべきは、初心会ではなく、NOAのような流通だと熱く語った。
ここで一つ注意をしておかなければならない。NOAがNIMSを作りあげ、先進的な流通機構を有していたのは事実である。ところがそれを作り上げたのは社長の山内溥ではなく、その娘婿である荒川實のほうなのだ。山内は日本国内ではあくまで従来の問屋商売を基本とした。翌1997年にはついに初心会を解散させたが、それでもあくまで初心会の優遇措置だった一律の条件を撤廃しただけであって、以降もその構成問屋と取引を続けているし、流通改革としてニンテンドウ64に個別のシリアルコードをつけた。これを読み取ると、そのデータが任天堂に流れるようにした。これで在庫がわかり、横流しも注視できる。ROMカセットでも任天堂はできることをやっていたといえるのかもしれない。
しかし鈴木はデジキューブを宣伝するときに、あまりにも初心会を悪しき前例にしすぎた。おそらくはここで、山内社長の個人的な限度を超えてしまったのではないだろうか? 娘婿を持ち上げたところで、山内のプライドが充足されることはなかったのであろうし。
山内が反応をしめした。デジキューブについて聞かれたとき、このように返したのである。
だがデジキューブは動き出した。もう止めることはできない。FF7の初期出荷220万本のうち8割が、コンビニで流通し、そしてあっというまに売り切れた。デジキューブのスタートは、山内の反応とは裏腹に大成功だった。
9.世界 ファイナルファンタジー
日本でのFF7は大成功であり、300万本の出荷に至った。小売価格は6800円だったが、FF6の取り分が2割程度だったのに対して、デジキューブで出荷した分はおよそ半分がスクウェアの取り分だった。つまりFF7は一本あたりの粗利益額でFF6より上だった。もちろんこれは流通経費を含めてのことなのだが、デジキューブが順調に稼働している時は高利益をスクウェアにもたらしてくれた。
スクウェアは海外販路の開拓に向かった。その時の協力なパートナーはSCEだった。SCEは1995年9月にアメリカにてPS1を299ドルで発売し大人気を得ていた。スクウェアの売上げの95%が日本で、残りの4%がアメリカ、1%が欧州だった。なんとかしてアメリカ市場を切り開きたい、とはスクウェア、SCE両方の共通した認識だった。
任天堂と離別したことをきっかけに、シアトルにあったスクウェアのオフィスを閉鎖した(NOAはシアトルにあった)。かわりにロサンゼルス郡の南部のマリナ・デル・レイに開発スタジオを立ち上げた。そしてニューヨークにあるソニーアメリカ内には、スクウェア用の小さなオフィスが設置された。スクウェアが正式にソニーの仲間入りを果たしたことを象徴していた。
スクウェアとSCEは力を合わせ、どうやってこのFF7をアメリカ市場に売り込むか思案した。この時代、アメリカ市場ではRPGのようなターン制戦闘システムやテキストを読んで世界観に浸るプレイはあまり受け入れられておらず、ソニックやマリオのようなアクションが好まれていた(アメリカはウィザードリィやウルティマが生まれた場所であるのだが、その謎を解説する知識を筆者は有していない)。FF7をどう売り込めばいいか。内容の修正は必須だった。マップの出入り口にはマークが追加され、他微調整が行われた。そして二社はプロモーションでの正解を導いた。RPGという言葉を使わなければいいのだ!
TVCMが組まれた。SCEはアメリカだけで20億円以上のプロモーション費用をかけた。そのTVCMにはRPGという言葉がどこにもなかった。
30秒のフルムービーはアメリカ市場の若者を魅了した。なんだこのゲームは! よくよく見たら戦闘画面も、移動中の画面もなにも映っていない。てっきりソニックやマリオのような超ド派手なアクションゲームだと思い込んで予約をいれる若者が殺到した。ATARIやNES時代から日本のゲームを追っているゲーマーの一部(例えばAVGNのような)は「FF4から6はどこにいったんだ!?」と混乱したが、些細な出来事だった。この時代、アメリカでも多数のゲーム雑誌が出版されていたが、そのほとんどが表紙にFF7をかざることになった。
アメリカ版FF7は日本の半年遅れの9月に発売されることになったが、12月年内中には100万本出荷を実現した。10万本もいかないFFシリーズが一気に羽ばたいた瞬間だった。最終的にアメリカでFF7は300万台出荷され、日本においてもインターナショナル版として逆輸入された。
余談ではあるが、実際にFF7をプレイしたアメリカの若者たちは衝撃を受けた。「思ってたんと違う!」と。ターン制RPGにはじめて触れる子ばかりだったので、ソニックやマリオのようなアクションを期待していたはずなのに、なんで「ATTACK」や「MAGIC」を選択して次に攻撃するまで待たなければならないのか、理解できなかった。
こんな意味不明なゲームシステムは初めてだ。詐欺にあったような気分だ。綺麗なムービーは見るだけだし、クラウドはうじうじしているし、あろうことかエアリスを殺しやがって! ……ようするに完全にハマってしまったわけだ。二年後に出た続編のFF8も北米で大ヒットした(その広告があまりに実態と違いすぎるため、訴訟が起きたなんて噂もでてきたが、FFシリーズはアメリカの若者に一気に受け入れられていった)。
10.拡大 デジキューブ
話を日本に戻そう。デジキューブはスクウェアが立ち上げた会社ではあるが、スクウェア商品専門の販売会社、というわけではなかった。カプコン、ナムコ、SCE、コナミ、ハドソンといった他の有力ソフト会社の製品も買い取り、それをコンビニに配って売った。攻略本や設定資料集も出版した。このときコンビニに対して、初期出荷分の返品を受け付ける契約だった。コンビニに安心してゲームを置いてもらうことが大事だと考えた上であるし、実際コンビニにゲームが置かれていることが日常化して、消費者に安心感をもたらすことに成功した。
そしてスクウェア得意のRPGから、よりジャンルの幅を広げる必要があった。人材は豊富だったので、それが可能だった。バーチャファイター、鉄拳両方に関わったことがある石井精一が立ち上げたドリームファクトリーに出資を行い、トバルNo1をリリース。体力ゲージのないリアル剣豪対戦格闘ブシドーブレードをリリース、旧コナミの開発陣を使って3Dシューティングアインハンダーをリリース、元クエストの松野泰己を使って本格シミュレーションRPG、ファイナルファンタジータクティクスをリリースと、得意ジャンルの幅を広げていった。
こうして発売されたソフトはまずデジキューブを通じてコンビニにならび、値引きなしの小売価格で消費者の元に届けられた。高利益でスクウェアの経営状況は飛躍した。1997年決算で売上は211億円だったが、98年では414億円に伸びた。営業利益も100億円を超えた。つまりスクウェアは利益率20%越えの超高利益体質を実現させた。
間違いなくスクウェアはこの時代の勝者だった。そして少し時はまき戻るが、RPGのもう一つの雄、エニックスも動いていた。もともとドラゴンクエストはニンテンドウ64用に開発されていたが、これをプレイステーション用へと移籍する、と97年1月に発表した。
その前、96年にエニックス社長福嶋康博は任天堂に二度出向き、説明と謝罪を山内社長に向かって行った。このときも山内は小言も嫌みも罵声もなく、ただ静かに「ああそうか」と語っただけであった。心境は複雑であっただろうが、山内は今回も静かに、去って行くエニックスを見送った。
何事もなかった。その背後に、スクウェアが動いていたと知るまでは。
実はスクウェアは96年初頭、正式にSCEへ参入したとき、伝手をつかってエニックスにアプローチをしかけていた。「一緒にプレイステーションへ移籍しよう!」と。SCEへと仲介し、ロイヤリティを安くすることを確約する。同時に「ニンテンドウ64は駄目だ」と言い伝えた。
エニックスは当初ニンテンドウ64に前のめりだった(ただし実際の開発はあくまで外注だった。エニックスは内部スタジオを有していなかった)が、スクウェアの勧誘と、PS1が想像以上に伸びていることで移籍を決めた。
しかしエニックスはあくまで任天堂との仁義を守ることにした。96年中、SCEとしては年末商戦までにドラクエ移籍を発表して貰い、売上を伸ばしたい旨を申し入れた。これをエニックスは断った。「いくらなんでも年末商戦前にそれをするのは仁義に反する」ということだ。そのため契約は96年中に行われたが、実際に広報するのは97年頭まで待つことになった。
そしてスクウェアが何をしたのか、山内社長の耳に入ってきた。スクウェアとしてはライバル任天堂に勝つための必要策であったかもしれない。しかし任天堂からして見たら、エニックスが仁義を守っているのに対して、あまりに幼稚すぎる所業に見えた。
任天堂と、スクウェア。お互いの仁義が次第にずれていき、そして気温はどんどんと下がっていった。二社の関係は氷点下となり、任天堂はスクウェアに対して実質的な出禁の態度を取った。もっとも、スクウェアが任天堂にアクセスしなかったため、その氷が目に見えることになるのはもっと後なのだが。
11.映画 ファイナルファンタジー
FF7は大成功を収めた。逆輸入のインターナショナルも売れ、日本国内で最終的に350万本を出荷したヒットとなった。これは歴代ファイナルファンタジーシリーズトップの数字だった。
坂口ら、スクウェアが考えたのはこの先のエンターテイメントだった。我々はゲーム会社だが、ゲームだけを作っていていいのか? 映画だって作っていいのではないか? ……坂口のアイデアに、橋本も乗っかった。彼はそもそも「ナムコやセガと競争することだけを考えているなら、興味はありません」といってスクウェアに入社した男だった。映画という新ジャンルに乗り込むのはむしろ願っていたことだった。武市社長もゲームのグラフィックスを向上させた先に映画があると睨んだ。スクウェアは映画事業に身を乗り出した。
スクウェアはハワイ・ホノルルに映画スタジオを建てた。坂口と橋本はそちらに移り、映画メインで活動するようになった。映画ファイナルファンタジー計画のスタートである。ちなみになぜハワイなのかというと、日本とアメリカのちょうど中間地点にあり、両方のアクセスが容易だから……というのは表向きの名目で、単純に坂口がハワイ好きだったからだ。
しかしこの事業は、あまり良いスタートを切ったとは言えなかった。
ゲームは小規模開発から次第にその規模を大きくさせていったが、問題はなかった。スクウェアは規模を大きくさせても、そのマネジメントを上手く機能させていた。だが、映画はゲームとは比較にならないくらい規模が大きかった。無数の人員が入り乱れ、それぞれの仕事を行わなければならなかった。坂口が映画のマネジメントを適切に行うには、経験が少なすぎた。
その上、日本とアメリカとで開発の意識が違いすぎた。日本では開発が佳境に入ると夜の10時を超えて働くのはごく当たり前、徹夜の連続も覚悟する。しかしアメリカでそんな働き方は理解されなかった。夜8時にはみんなが帰宅していた。
坂口はゲーム制作で飛び抜けた才能がある男であったが、映画ではそうではなかった。さらに不幸なことに、坂口を適切に批判してくれる人材がこのときスクウェアはいなかった。坂口はハワイの税制優遇措置を一つも活用することがなかった。それは10%だけ現地のハワイ人を雇うと減税が受けられる……といったようなものだったが、坂口はあくまで自分たちのチームにこだわった。もしこの優遇措置を活用していたら、数億円といった費用を減らすことができたはずだが(雇う業種はなんでもよかったので、掃除係でも雑用係でもよかったのだ)。
坂口は映画にこだわり、多額の予算を注ぐようになった。当初、映画の予算は40億円程度を見込まれていたが、すぐにその予算は使い果たした。最終的に150億円が注がれた。これはすべてスクウェアの自己資金だった。ゲームファイナルファンタジーで稼いだ金が、どんどんと映画ファイナルファンタジーに注ぎ込まれていった。
それでもスクウェアなら問題がないはずだった。デジキューブが稼働し、高利益体質を維持しているのなら。問題はそれを維持することが困難になってきた点にあった。
12.暗雲 デジキューブ
もともとデジキューブで売られている商品はすべて値引き無しの小売価格販売であった。これはSCE流通の基本理念と通じていて、当初のプレイステーションソフトは値引きなしで売られていた。そもそもCD-ROMは安いのだから、小売価格を下げて、値引きはなくしましょう。在庫も少なくリピード発注を使って下さい、ということだ。新品で利幅を取って、かわりにメーカーが嫌がる中古も排除するというもくろみだった。
しかしデジキューブが立ち上がった直後、96年5月に公正取引委員会がSCEに対して立ち入り検査を行った。SCEが小売店に指導した「小売価格強制」「中古禁止」「横流しの禁止」が、独占禁止法にひっかかるのではないか、という検査である。これに先駆けて96年4月には「発売後、二ヶ月が経過したソフトに関しては、自由に値引きを行って良い」という通達が小売店に向けてなされていたが、そんなもので公正取引委員会は見逃してはくれなかった。厳しい検査がSCEに対して行われた。FF7発売後の97年11月には、SCEは各小売店に対して値下げの自由を通知した。
そもそもSCE流通では返品が認められていなかったが、小売店はどうしても在庫なしの機会損失を受け入れられず、多く在庫を取りたがった(品揃えが悪い店に、なぜ客がくるというのだ?)。そして結果、売れ残った在庫が値下げもできずに圧迫するという悪循環が出来上がっていた。小売店は価格を下げ、不良在庫を放出していった。そして客寄せのため、新作を発売日から割引しはじめた。
デジキューブがこの煽りを食らった。コンビニで販売する以上値引きなし販売にこだわる必要があったが、次第にデジキューブでの売上が鈍化しはじめた。一度はコンビニでゲームを買うことを覚えた消費者層だったが、すぐに値引きなしのコンビニで買うことに違和感を覚え始めていった。……どうして小売価格そのままでゲームを買う必要があるんだ?
そしてスクウェアはどうしても全ての商材をデジキューブに回す、という判断ができなかった。既存の小売店にもファイナルファンタジーや、他の商品を卸した。FF7の初期出荷の8割をデジキューブで回したことは過去の出来事となり、じわじわと既存小売店への比率が高まっていった。
ゆっくり、ゆっくりとデジキューブの中に不良在庫が溜まりつつあった。これはデジキューブの構造的欠陥も潜んでいた。
デジキューブは売上予測時にPOSを使うと明言していた。実際、POSデータを元に次は何がどれくらい売れるかを予測していた。しかしこの予測はどんどん外れていった。POSデータを元にした売上予測は不可能だった。娯楽のなかでもジャンルが独特のゲームという媒体は、その需要を読むのが困難だった。当時まだまだ小規模なゲームショップという競争相手が元気で、全体的な需要を捕捉することが不可能だった、というのもあるかもしれない。
坂口が映画のプロデューサーとして未熟だったように、鈴木も流通のスペシャリストとしての経験を積む前に実戦へ赴くことになった。スクウェアは次第にその脆弱性を露わにし、経営的な問題を大きくさせていった。天は二物をあたえないため、当然のことなのかもしれないが。
1999年、デジキューブ社長である鈴木はスクウェアに戻り、協和銀行出身の染野正道社長へとバトンタッチした。
そして崩壊が始まった。
──続く
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