任天堂の社長になれなかった男 荒川實 第三幕 -セガとEAとハリネズミ-

第一幕はこちら

セガは誰もが大好きなアーケードゲームメーカーだ。

ゲームセンターにいけばスペースハリアーが、ハングオンが、アフターバーナーが注目を集めていた。セガは最先端で、Coolで、クレイジーだった。若者の心をつかむ究極のゲームメーカーだった。同時に「縦と横に360度回転しまくる大型体感ゲーム筐体つくろうぜ!」と思いつき、本当に実行してしまう無謀さを同居させたメーカーだった。

しかしそんな煌びやかな名声を得ているセガも、家庭用ゲーム機市場においては任天堂とNOA(Nintendo of America)の前に完全に隠れていた。日本においてファミコンと同時期に発売されたSC-3000、SG-1000は性能面においても知名度においても普及台数においてもファミコンに及ぶことはなかった。そのあとのマーク3も、マスターシステムも、打倒ファミコンを打ち立てつつも、強固な任天堂帝国に対して傷一つあたえることができなかった。

その状況はアメリカでも変わらなかった。マスターシステムが日本より先行発売され、スペースハリアーやアウトランの移植版をキラーソフトとしてそれなりに普及したが、あくまでそれなりだった。NOAが最大「月」200万台NESを出荷する横で、マスターシステムの「累計」出荷台数は300万台だった。

当時のセガ・オブ・アメリカ(以下SOA)社長カリンスキーは回想する。当時、SOA社員たちをねぎらうために近所のイタリアンレストランに出向き、一席設けたのだった。
このパーティの時の雰囲気は最悪だったという。NOAにすべてしてやられている。NESとそのソフトを売ることに小売店は夢中で、セガの割り当てられる席は、といえばゲームコーナーの隅っこが定位置だった。子どもたちを誘う試遊台、ガラスの向こうでライトアップされ段積みになっている棚。それらはセガとは無縁だった。
NOAはその内部にNMI(NES Merchandising,Inc)という組織を立ち上げた。彼らはアメリカ中の小売を飛び回り、ディスプレイから試遊台、企業ロゴのポップ、パンフレットとその設置棚を小売担当者と相談した上で構成し、次々に鮮やかに小売の一角にニンテンドーコーナーを作り上げた。そして徹底した在庫管理を行い、その商品の回転を速めていった。
89年にはさらに加速する。このニンテンドーコーナーをさらに進化させ任天堂商品専用販売ブース、「World Of Nintendo」システムを立ち上げた。これは店舗内に最低1.5坪、できるならば4坪以上のスペースを確保した小売店のみが契約できるもので、独自のディスプレイを置くことが出来る上、NMIから人的援助(開設時だけ、という限定条件ではあったが)も得ることが出来、さらにその後NOA関連の売上げの1%がリベートとして補填された。置かれる商材はゲームソフトのみならず、ニンテンドウ・パワー誌や公式の関連グッズ、サードパーティーが認定した公式グッズも置かれた。
このNOA専売のスペースはアメリカ全土に広まり、10000店舗に大きく「Nintendo」と掲げられたコーナーが設置された。セガの居場所はそこにはなかった。

SOAの社員たちは皆、いつ自分の子どもが「World Of Nintendoにつれてって!」と言い出すかと、ビクビクしながら仕事をしていた。いずれ「パパは任天堂のライバル会社で働いているんだよ」と言わなければならない時がくるだろう。それは子どもに対して「パパはジョーカーの手下だったんだ」「パパはフット団の一味で、今度ミュータント・タートルズと戦わないといけないんだ」と告げるようなものだろう。唯一の救いといえば、そういうのが嫌いじゃない子どもも少数派ながらいることだろうか。

アーケードの華々しい名声とは裏腹に、売らねばならないコンシューマーでこのような状況に追い込まれたチームの、よどんだ雰囲気を振り払うべく、カリンスキーはできる限り楽観的にいった。

「セガの紳士淑女の皆さん。皆さんの大変な努力に感謝致します。今日のセガがあるのも、皆さんの長きに渡る努力の賜物です」

部下の一人が茶化して返した。

ーで、今日のセガっていうのはなんです? 任天堂にいいようにされてる犬のおもちゃのことですか?

部屋に思わず笑いが満ちた。カリンスキーも一緒になって笑った。そしてこう返した。

「いや、違うね。おもちゃなら犬だって誰にだって、相手にしてもらえるだろう?」

さらなる笑いが起きた。その笑いがしばらく続き、ゆっくりと引いていった頃を見計らい、カリンスキーは続ける。

「だが、見ているが良い。勝つのは我々だ。うちには何も失うものがない。あの巨人の脛に一発蹴りをぶち込んでやるんだ!」

部下達はカリンスキーの檄に盛り上がり、燃えさかった。彼らの情熱は消えてはいなかった。さながら風車に立ち向かうドン・キホーテだろうか、それともゴリアテと戦うダビデだろうか。
その小さくも消えない情熱の炎は、後に彼らに小さな奇跡を引き寄せた。



任天堂社長山内はセガのことを表向きは相手にしていなかった。「任天堂のライバル? どこにいるんです?」といった具合である。しかしその心の内ではセガへの対抗心をメラメラと燃やしていた。
任天堂はすでにアーケード部門から撤退を完了していた。反面セガはアーケードゲームの雄である。コンシューマーにおいては任天堂が圧倒的だった。ならば任天堂としてはアーケードに言及する必要はないのだが、なぜか山内はよくアーケードゲームについて触れている。少しあとの時代でクレーンゲームやUFOキャッチャーが流行したときは、

「原価が100円ほどの人形をとるために女の子が数千円もお金を払っている。じきにバカらしくなっていき、飽きてきた。そうしたタイミングで筐体の台数は増える。そんな状況なのにマスコミは『来年度も二桁台の成長が見込まれる』などと書いている。来年には10%は市場が減るだろう。全く何も知らない人間が独断と偏見で無責任きわまりないことを書いている」

と公言した。UFOキャッチャーはセガの商標であり、セガはこのときクレーンゲームシェアでNo1だった。この言葉に当時のセガ社長中山はインタビューで「山内さんはアミューズメント・ビジネスを理解していない」と憤慨しながら返した。


時は1990年、NESが熱狂的に売り上げていたその横で、シェア5%の企業セガがアメリカでジェネシス(日本ではメガドライブ)を発売した。心臓部に16bitの高速CPUをつみ、メインメモリはNESの30倍搭載し、NESが最大52色発色のに対してジェネシスは512色中64色発色可能だった。スペックはNESのはるか上をいく、まさしく「次世代機」であった。これに対し荒川やNOAのスタッフは落ち着いて見つめていた。「まだ8bit機で十分だ」と。現にNESは飛ぶように売れている。あと1000万台は売れるだろう。日本では年末にスーパーファミコンが発売されるが、半導体不足でアメリカでの同時発売は無理そうだった。いや、そもそもそれは必要ない。1991年8月発売予定で結構。その間NESを売れるだけ売れば良い。日本では売上げに陰りが見えてきたファミコンも、アメリカではNES本体もソフトも絶好調なのだから。NESがそうだったように、日本で先行販売し、頃合いをみてアメリカで16bit機を売れば良いのだ。(現に1990年からの二年間でNESはアメリカで1800万台売れた)ようやく発売された「スーパーマリオブラザーズ3」は1000万本近く売り上げていた。皆がマリオのことを、任天堂のことを愛していた。

ジェネシスは、SOAスタッフの熱意にもかかわらず売上げが低迷していた。キラーソフトも用意した。世界的大スターであるマイケル・ジャクソンと契約し「マイケル・ジャクソンズ ムーン・ウォーカー」を発売した。契約金として数億円をかけたといわれるこのゲームは、残念ながら「ずば抜けた大ヒット」には至らなかった。ジェネシスはそれなりに販売増を達成したが、NESの売上げは変わらなかったし、それに追いつくには足りなかった。

任天堂には宮本茂がいた。それに他多数のゲームの天才らがいた。翻ってセガはどうか。いる。セガにもゲームの天才がいる。鈴木裕はアウトランを生み出し、ハングオンやスペースハリアーを生み出した最高のクリエイターだ。しかし彼はどちらかといったらアーケード畑の技術者だった。ジェネシスにそれを移植するのは概ね成功したが、ジェネシスが飛躍するのにはジェネシスオリジナルのゲームタイトルが必要だった。
そんなジェネシス有するSOAであったが、強力な助っ人が現れた。エレクトロニック・アーツ(EA)である。これがジェネシスにとって初めてのサードパーティーとなった(日本のメガドライブには少数ながらサードパーティーが1989年から参入していたが)。EAはPCゲーム専門の販売会社として生まれた。中小のPCゲーム開発社に支援をし、権利を買ったそのゲームをPC市場で販売する企業であったが、80年代後半からは自社でゲームを開発するようになっていった。PCゲーム界では最大手だった。
そんなEAがジェネシスに参入しようというのだ。SOAは驚いたが、彼らの言い分にはもっと驚いた。

「我々はすでにジェネシスのリバースエンジニアリングに成功しています。契約が締結せずに終わった場合、我々は独自にジェネシスで動作するゲームソフトを作って売りますから」

SOAのカリンスキーは、EAのホーキンズ社長の言葉に声を失った。リバースエンジニアリングとはジェネシス内部の構造を分析・解析することで、いわばEAはジェネシスを知り尽くしており、セガの助けなしの独力でゲームソフトを自由自在につくることができるということを指す。

「裁判費用は1000万ドル用意してあります。ご自由に」

ホーキンズはそう付け足すのを忘れなかった。出るならどうぞ、というわけだ。SOAはNOAほど裁判に詳しくなかった。カリンスキーは冷や汗をかきながら交渉を続けた。内容的にはオーソドックスなものだ。年間での本数制限に、一本当たりのロイヤリティ。任天堂を踏襲した条件を提示した。ホーキンズは首を横に振った。「そうじゃない」と。

「どうしてどこも支配しようとするのか」

EAはコナミにライセンス付与する形でNESに参入をした。その利益は大きく、EAの本格的なコンシューマ参入を決意させた。しかしEAが慣れ親しんだPC市場の論理がコンシューマーではまったく通用しない。自分たちの望んだ本数でつくれない? 年間に発売できるソフトの数が決まっている? 馬鹿らしい! 良いゲームが出来たなら出せばいいじゃないか! なんで本数を制限しようとするんだ!
こうしたEAの気質は任天堂とは相反していた。とても今の任天堂とは組めない。しかしセガなら? セガは弱小である。ならば我々の力量を買い、「よりまともな」条件で契約することができるだろう。ホーキンズはそう踏んだ。
カリンスキーは致し方ないが訴訟という選択肢もある、と考えた。しかしよくよく考えた。この条件は確かに厳しいが、EAのゲームがジェネシスに出ることで売上げが伸びるのなら、惜しくはない。EAは自由なプラットフォームが欲しい。我々としては、NESに対抗しうるソフト群が欲しい。利害は一致している。
ホーキンズが「『カードリッジの自社生産許可』と、『それなりに緩和された本数制限』と、『6割に値引きされたロイヤリティ』」を提示したのを見て、カリンスキーは頷いた。

「よろしい。だがこれに付け加えたい条件がある」

何かね、とホーキンスが応える。カリンスキーが言った内容はとんでもないものだった。

「EAの有するマッデン(当時から人気作だったフットボールゲーム)の権利を売って欲しい。その内容を一部変えて、違うゲームとして売り出すんだ。つまりJohn Madden Footballと、Joe Montana Footballとを二作出すんだ。もちろんプロモーション費用はこっち持ちだし、ロイヤリティだって相応分払おうじゃないか」

ホーキンスは唖然とした。ユーザーに気がつかれないうちに、同じ内容のゲームを二作に分けて発売する。確かにこうすればユーザーはフットボールのゲームがジェネシスには豊富だという印象を植え付けることができるだろう。フットボールは国民的スポーツだ。ジェネシスの売上げが伸びるに違いない。……中身がバレてしまったときの問題は、SOAが背負うことになる。そこまでの責任はホーキンスには追えなかった。

「よろしい。我々はパートナーだ」

二人が握手をした。SOAにとって大事なのは、NOAへ対抗する力だった。


EAは1990年にジェネシス向けのゲームを発売した。その途端、同社の株価は急騰した。1991年には9本のゲームをさらに発売した。そのうちの4本はベスト10入りを果たした。NES一色で支配されていたコンシューマゲーム市場に、ついにヒビが入ったのである。そのヒビを入れたのは、SOAとEAの連合軍だった。ジェネシスの売上げは1991年半ばまでで100万台売れた。任天堂の次世代機SNESが発売された時点で、セガにリードを100万台差つけられてしまったのである。NESをもう少し売ろうという算段に完全に漬け込まれた。NOAはもっと早くSNESを出すべきだったのだ。

大本命として登場するはずのSNES(アメリカ版スーパーファミコン)は遅刻した代償を支払った。出だしから鼻面に思い切りストレートをくらい、膝をついたのだ。
任天堂に無視されるような弱小ゲームメーカーがチャンスを求めてセガと契約を行い、そして次には大手ゲームメーカーも「出遅れてなるものか」と契約にやってきた。SOAは大いに盛り上がった。
この機に乗じてEAはなんとNOAとSNESについて契約を行う。ホーキンスがもしそのことをカリンスキーに問い詰められても「裏切ったな、とは言うまいね。あの契約書にNOAとの契約のことは一切触れてないのだから」とでもいうだろう。ホーキンスは1992年にEAを退社する。しかしEAにとってジェネシスのほうがより優位な契約であったため、ジェネシスをメイン機種に据え、SNESはあくまで年2-3本の扱いだった。(そのためEAソフトはマルチタイトルのはずがジェネシス版のほうがよく売れた。)



NOAと荒川に逆風が吹き始めていた。実はNOAには以前から「悪辣な独裁者」という不名誉なレッテルが貼られつつあった。サードパーティからは「我々が要求したゲームソフトの量を一方的に削減した」。小売店からは「満足できる量のゲームソフトが入荷しない」。そしてあろうことかアメリカ政府からは「ここまでシェアが高い企業は独占禁止法が適応されてしかるべきでは。なにか悪質な手腕を振るっているのでは」と思われたのだ。NOAと荒川はそのレッテルを剥ぐことに労力を使わされたが、売上げが低迷することには決して繋がらなかった(だからこそレッテルが貼られ続けたとも言える)。

しかし、一つの大きな事件が起こってしまう。

1987年、ATARIがNOAにやってきた。「あの」、ATARIである。かつてのゲーム業界の巨人。あの小売店が口をそろえて「テレビゲーム機なんてもうまっぴらだ!」と言う羽目になった事態を引き起こした張本人だ。
ATARIはあの後二つに分割されてしまった。アーケードゲームのATARIゲームズと、家庭用ゲーム機のATARIコープとにである。ATARIゲームズはあのショックの後、いくつかのヒットに恵まれた。「マーブルマッドネス」(制作者はマーク・サーニーのアクション。彼は後のPS4/5のリードシステムアーキテクトである)や「ガントレット」(何回かリメイクされるほどの人気をもったアクションゲーム)といったもので、これらのヒットのおかげで体力を少しずつ回復させていた。そして自分たちがやらかしたあとの家庭用ゲーム市場が、NESという起爆剤で一気に湧き上がるのを横目で見ていた。ATARIゲームズはATARIコープと分裂した際、協定によって家庭用ビデオゲーム機市場に進出できないようになっていた。
すぐに解決法を思いついた。別会社を立てればいいではないか。「テンゲン」という囲碁用語を借用した(ATARIも囲碁用語である)会社を立て、NOAに接触してきたのである。
NOAは驚いた。あのATARIがやってきたぞ。未だにATARIは「ビデオゲームの創業の祖」として皆に認知されている。あのATARIが契約してくるとなれば、ついにATARIがNOAに屈したと見なされる!
ATARIゲームズはNOAの首脳部と交渉に入ったが、ライセンスが欲しいとストレートに言ってきた。その際「あの面倒くさい条件」を一部解除してくれ、と言ってきた。つまり年間5本というソフト発売制限を緩めてくれと要望したのだった。

荒川は心が乱れることはなかった。返す言葉はいつもの通りだ。「我々はライセンス企業を全て平等に扱います」と。細かなところで交渉の余地はあるものの、基本的な扱いは全く変わりない。それがビデオゲーム界の巨人(血まみれで地面に両膝と両手をついた状態であっても巨人は巨人だ)であろうとも。
1988年、正式にテンゲンがNOAと契約を行った。その後、荒川はテンゲンとの会談でちょっとした秘密を暴露した。先の提案を無碍にしてしまったため、心証を回復させようとしたのだ。具体的にはNOAの日常業務や小売店への接し方といったノウハウである。これでテンゲンは売上げを伸ばすことができるだろう、と荒川は考えた。

このアドバイスはそれなりに効果的に思えた。テンゲンのトップらと荒川はディナーパーティやゴルフを共に行うほどの仲になる。パーティ中もNOAの商売について質問が飛び、荒川がそれに応えるという良好な仲に見えたが、荒川は「なんとも微妙な雰囲気が根底に流れていた」と振り返る。

1988年12月初旬、NOAが創業以来もっとも盛大なクリスマスパーティを行っていた最中、その知らせは届いた。テンゲンが記者会見を開き、「NOAを独占禁止法違反で告訴し、一億ドルの損害賠償を求める」と声明を公開したのである。
しかも恐ろしい声明が追加されていた。

「我々はNESのセキュリティチップの解析を完了した。このチップの複製に成功したため、以後我々はライセンスなしでNES向けゲームソフトカートリッジを製造する。これは違法行為ではない」

荒川とリンカーンとメーンの三人……NOAのTOP3であり、旧知の仲である三人は即対応を強いられた。荒川は今までの流れを思い出した。NOAの商売手法を根掘り葉掘り聞いてきたテンゲンの奴ら。あれは、あれはすべてこのためのものだったのだ! こともあろうにNESの利益を横から吸い取ろうとするのだ、あいつらは! 
表向きのテンゲンの主張は「あまりにカートリッジの配分が少なすぎる」というものだった。しかし彼らはNOA参入前からこの絵図を描いていた。テンゲン社長、バン・エルデレンのオフィスには壁にNintendoのステッカーが貼られている。そのステッカーには赤い斜線がすっぱりと引かれていた。
もう一人のトップ、中島英行のところへ荒川は行った。荒川と交流を深め、ディナーパーティなど交際していた相手である。彼はばつが悪そうな顔で、慎重に言葉を選んで荒川にいった。

「私個人としては、会社のやり方には反対していた。しかしNOAが柔軟な態度で交渉に挑んでいたらこんなことにはならなかったろうに。……どうだろうか、うちのカードリッジはうちの自主製造を認めてもらえないか。そうすれば告訴を取り下げようじゃないか」

荒川はそのまま返事もなく立ち去った。彼は自分のことをなんだと思っているのか。形容しがたい負の感情を抱え、戻り、彼の言葉をリンカーンに伝えた。リンカーンは目を細め、鼻で笑った。「なるほどね」と漏らした後、彼は荒川に言った。

「あいつはキミのことを格下だと思っている。荒川實は山内溥の不肖の婿、中身のない操り人形だ、ってね。だから敵に回したところで怖くもなんともない、と。……それが大間違いだってことを見せつけてやろう。荒川がATARIにトドメを刺す猛獣だってことを知らしめるのさ」

即日、二件の訴訟がNOAからATARIゲームズ相手に対して行われた。一件は「NOAを不当に誘導してライセンス契約を結んだこと」と、もう一件は「不法に製造したカートリッジを販売したこと」である。テンゲンはカートリッジの製造を進め、年間4000万ドルの売上げを達成するようになった(これでも尚、テンゲンはNOAの妨害がなければ数倍の売上げが見込まれたと主張していた)。

もしテンゲン相手の訴訟に敗北した場合、NOAのアメリカビジネスが大きく後退することを意味する。NESやSNESへのハード売上げや、自社販売のソフト分の売上げは目処が立つだろう。しかし無尽蔵に乱発されるサードパーティーのソフト、山積みになる在庫と価格競争、そこまでしておいて入ってこないライセンス収入。アタリショックとまではいかないが、市場は大きくしぼむことは間違いない。今の市場はNOAの管理があってこそのものだと荒川は考えていた。そして今やNOAは、任天堂の全売上げの5割を稼ぎ出す巨大優良会社なのだ。ATARIゲームズとの訴訟にはあの「ジョン・カービィ」が再び任についた。

荒川はリンカーンの発破を受けたものの、そこから眠れぬ夜を過ごすようになってきた。いよいよ義父の信頼を裏切ることになるかもしれない。山内に対していくつか後ろ向きな進言を行った。「最悪の場合、アメリカ市場を手放す必要があります。時間は稼ぎますので、他の市場への注力をお願いします」と。山内は事態の深刻さを受け取った。しかし荒川を更迭させるような真似はしなかった。

「お前に無理なのなら、他の誰でも無理だろう」

山内は進言を受け入れ、欧州その他へのNES販売にも注力し始める(しかしこれはいくらなんでも遅すぎた。海賊版のコピーNESが普及仕切った後だった。なお、この時欧州圏で任天堂商材を取り扱っていたのはあのジュディである。NESの売上げは「まぁそれなり」であったが、ゲームボーイは飛ぶように売れた。この時代の少し後に欧州各国の特色にあわせてローカライズを手がけるNintendo Of Europeができあがった。任天堂が欧州圏で猛威を振るうのはもう少し先の時代の話になる。)。



前門のセガ、後門のATARI。NOAはこのような状況に陥った。SNES発売前に「悪辣な独裁企業」というレッテルを貼られ、最高のタイミングでセガがまるでアメリカ企業の救世主のようにジェネシスを発売したのである。SOAはこの機を見逃さない。NOAに負けじと広告作戦を展開した。ただの広告ではない。一大プロモーションだ。そうする理由があった。なぜならついに誕生したからだ。セガのアイドル。マリオに匹敵するスーパースター。天才、中祐司が作り出したセガ渾身のタイトル「ソニック・ザ・ヘッジホッグ」が完成した。

SOAの動きは素早かった。当時ジェネシスにバンドルされていたのはAltered Beast(日本名は獣王記)であったが、これをソニック・ザ・ヘッジホッグへと変更する。ジェネシスの本体価格は189ドルだったが、これを149ドルへと値下げした。

ソニック! 音速のハリネズミ!

SOA社長カリンスキーはソニックのファン第一号と言えるかもしれない。このキャラに全てをかけようとした。打倒NOAの夢と野望を背負って走り出したハリネズミは、アメリカ中を駆け巡った。
セガはあえて自社広告に任天堂機を載せた。そして明確に言い放った。「任天堂? もう古いよ」。SOAのターゲットは「少し大人」の中高生だった。低年齢層はマリオの魅力から引き剥がすのは困難を越えて不可能だ。だがそれより少し上の年齢層、CoolやBADに意識がむく子を総取りしてやろう。マリオが気の良いオジさんならば、セガはちょっと悪いことを教えてくれる従兄弟のお兄さんだ。
SOAは「卒業したらジェネシス」というキャッチコピーを作り出した。中学生になったら、高校生になったらジェネシスこそ相応しい。もちろん卒業したのはgrade schoolだけじゃなく、NESを指している。
そしてラジオを最大限活用した。PR番組をつくり、景品をプレゼントし、最新ニュースを垂れ流しにした。ラジオはNOAがフォローしていないほとんど唯一といっていい媒体だった。
またNOAにはニンテンドウ・パワー誌があり、SOAにはそれがなかったが、この時代遅れて「ゲーム情報誌」というものが立ち上がってきた。しかしNOA自体が最強の「ニンテンドウ・パワー」を発行しているのだ。競争にはなりえなかった。SOAが目をつけたのはそこだった。そういったゲーム誌にどんどんセガの、ジェネシスの情報を流したのだ。喜んで各ゲーム誌はセガの情報を取り上げた。NESとSNESの比率は相対的に低くなる。次第にセガの露出が増え始め、周知されるようになっていった。弱者だったSOAがどんどんとNOAを押し始めた。SNESは初年度に200万台を出荷する名誉を受けたが、店舗にて3割が売れ残るという事態に陥った。そしてこのときジェネシスは累計200万台以上実際に販売されていた。

SOAの戦略は「先手を打て」だった。先に16bit機であるジェネシスが売れてしまえば、その後その家庭でSNESが売れることはないだろう、そう踏んだ。そして現実はその通りになりつつあった。100ドルを超えるおもちゃをぽんぽんと買い与える親は、1991年のアメリカにそう多くはなかったのである。飛ぶようにソニックが、ジェネシスが売れ出した。それは同時にNOAのシェアが無残に侵食されていることを指していた。

荒川は二正面作戦を強いられ苦戦をしていた。ここまでに至ってもあくまでセガを競争相手と認めるコメントを出していなかった。もしなにかそれらしい……「ソニックなど一時のブームだ」といったコメントを出してしまえばそれはもう、セガをライバルとして認めたと公言しているようなものだ。それだけは避けなければならない。しかしセガのほうは任天堂をライバルと呼ぶのは何の問題もないのだから、PRに差が出てきてしまうのは当然だった。

そしてあろうことか、セガとテンゲンが手を結んだ。テンゲンはNESのセキュリティチップを解析した一方、ジェネシス向けに対しては「相応にテンゲン優位」な条件でセガと契約を行った。これによりテンゲンはジェネシス向けに数十本のソフトを提供する。セガはソフトラインナップを拡充できる一方、ライセンス料をもらい受けることもできた。テンゲンはNOAと訴訟合戦を行っている真っ最中であったが、セガ本社の中山社長より裁判費用の援助を受けていた。それの恩義に報いる形のライセンス提携だった(中山社長としてみたら敵の敵は味方、ということだろう)。その援助の甲斐あってか、大方の予想では裁判の行方は「テンゲン優位・NOA不利」であった。



1992年、SNESがジェネシスに押されイマイチ普及スピードが乗っていなかった頃。SOAがジェネシスのさらなる値下げを行い129ドルにすると広告し、「ソニック2」が11月に発売すると発表された頃だった。劣勢であることは明らかだった状況下、荒川に一つの朗報が届いた。

「ミノル……勝ったよ!」

長い長い沈黙を挟み、電話越しにジョン・カービィからの勝利宣言が届いた。テンゲン、ATARIゲームズとを相手に、NOAは勝利を得たのだった。荒川は思わず聞き直し、そして電話を握りしめたままガッツポーズをとった。知らせを聞いたNOA首脳部はクリスマスパーティよりも大きな声で快哉を叫んだ。陪審は全会一致で「任天堂のライセンス契約にかかわる方式は、ATARIゲームズに損害を与えていない」という結論を出した。しかもこの判決をもって任天堂に対する他の訴えも却下した。

この逆転劇には一つの裏話がある。そもそもATARIゲームズはNESのセキュリティチップの解析に成功などしていなかったのだ。
1986年、ATARIゲームズは当初弁護士に「任天堂を通さずテンゲンがNESでプレイできるゲームを制作・発売するのは可能か?」という問題を探っていた。弁護士の答えは「セキュリティチップを合法的に解析し、それを突破すれば問題ない」というものだった。これを受けてATARIゲームズはなんとかこのセキュリティシステムの突破を図ろうとした。しかし失敗したため、外部の技術者を使いNESのセキュリティチップを解析しようとした。しかしこれも成功しなかった。これら一連の流れは裁判所によって発見された。

本来ならばそこでATARIゲームズは諦めて、ごく普通のライセンス契約を結ぶはずであるが、そうではなかった。ATARIゲームズ社はバージニア州のとある法律事務所に依頼をしている。「我が社が任天堂に訴訟を起こされている。そのため参考資料として該当資料をコピーしてほしい」という内容だ。その法律事務所はUSコピーライトオフィスに出向き、依頼の通り該当資料のコピーを申請した。そして申請は通り、コピーは届いた。その該当資料のコピーとは、NESのセキュリティチップのコードそのものだったのである。ATARIゲームズは虚偽の申請を行うこと(このときまだ任天堂はATARIゲームズに対して訴訟を起こしていない。実際に訴訟が起きるのはこの二年後である)で、まんまとセキュリティを突破することに成功したのである。
この盗み出したコードを使い、ATARIゲームズの技術陣はNESのセキュリティチップのクローンを作り上げた。ATARIゲームズは「盗み出したコードと、当社のチップは全くの無関係である」という主張を繰り出していたが、連邦地裁には通用しなかった。任天堂と、ATARIゲームズのセキュリティチップがほとんど同じコードだったからである。違いはATARIの側は、無意味なコードが乱雑に追加されているというだけ。もし本当にATARIゲームズが自前で解析をしたというなら(ジェネシスに対するEAのように!)、もっとコードは全然一致しないようなものに仕上がるに違いないのだから。カンニングしつつ開発したのが見え見えだった。


ATARIゲームズはNOAと和解することとなった。上訴を断念するかわりに50万とも100万ドルとも言われる裁判費用を免除してもらえたのだ。これによりNOAは完全に勝利を得たといえた。
ATARIゲームズは一度はアタリショックから抜け出し、立ち直ろうとした最中だったが、これを機に再度倒れた。まさしくリンカーンの予言どおり、荒川にATARIゲームズはトドメを刺された。

ATARIとの決着はついた。次はセガだ。こう意気込む荒川だったが、そこに大慌てでリンカーンがやってきた。手に一枚の紙を握りしめて。

「大変だ! あいつらがやらかしたぞ!」

荒川は興奮しきるリンカーンから知らせを聞いて頭を抱えることとなる。その紙の送り主は、連邦議会だった。

『昨今の暴力的な表現を多く含むゲームの氾濫について公聴会を開きたい。ついては任天堂、セガの両社は事態の説明できる代表者を、12月9日に連邦議会上院委員会に出席させよ』

このとき、NOAは暴力的なゲームに規制を敷いていた。リンカーンがいう“あいつら”とはセガのことである。NOAはセガのやらかしに巻き込まれようとしていた。


-続く-

第三幕あとがき


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