任天堂の社長になってしまった男 -君島達己-

2015年7月。任天堂社長、岩田聡死去。55歳。あまりに早すぎる死であった。

現役任天堂社長の死、という事態に驚いたのはゲーマーたちばかりではない。その当事者である任天堂は二ヶ月の社長空白期間をおくことになった。

その二ヶ月後、任天堂の社長になった男に、ゲーマーたちは驚いた。その男はクリエイター畑ではなく、今までマスコミに対して露出することがなかった、ほとんど無名といっていい人物だったからである。しかもゲームソフトの開発には一度たりとて携わったことはなかった。

知名度でいえばマリオの生みの親、宮本茂がずば抜けて高く、次いでハード部門での責任者竹田玄洋が高かった。彼らを差し置いて会社の顔となった男は、いったい如何なる男なのか? 


君島達己。
彼は元々銀行マンであった。ゲーム会社の経営とはとても無縁そうな経歴に見える。しかし彼は岩田社長や、山内元社長らの下で、任天堂の気質と娯楽産業のあり方をハイレベルに理解した希有な人物であった。


任天堂に入る前と入社後の彼の経歴を辿り、如何にして任天堂の社長になったか、そして社長になったあとで彼が何をしたかを確認していこう。


君島達己は1950年、東京にて生まれる。大学は一橋大学で、卒業後、三和銀行(現在の三菱UFJ銀行)に入社する。
銀行内では一般的な国内業務の他、外国為替ディーラー業務も行った。28歳の時にはサンフランシスコにて海外勤務を行うことになる。本格的に英語を喋れたわけではないので、その前に英語漬けの6ヶ月間を過ごすことになった。
ニューヨークにも転勤し、その後は世界を飛び回った。アメリカでは現地銀行の買収の検討を行った。

帰国後は本店の広報部に入り、組合の執行委員長、経営企画にも携わった。会社全体がどのように動いていくのかを肌で感じ、学び取っていった。次第に経営を理解し、そして広報の仕事を通じてマスコミ、対外的な情報発信の仕方を学び取った。ここで君島は「自分の所属している企業が、外部からどのように見られているのか」という視点を得ることになる。

そして2000年、君島達己50歳。転機がやってくる。彼の動きが当時の任天堂社長山内溥に止まり、直々にスカウトに来た。

「海外業務が出来、広報に詳しい人物とならば、是非とも任天堂に欲しい人材だ」

このとき山内溥は苦境の最中にいた。プレイステーション連合軍にニンテンドウ64は苦戦を強いられている。シェアは削られ、そして何より自分の勘からくる見込みが次々に外れていった。もはや自分の勝負勘が当てにならないことは自分自身がよくわかっていた。しかし、任天堂は次代へ残さなければならない。最良の形は、自分の信じた人物にこの会社を託すことだった。勝負勘は衰えど、人材の見極めにはまだ山内は自信があった。次なる社長を岩田聡と定め、彼を任天堂に呼んだ。そして二年かけ、次なる社長になるための教育を施す。それが既定路線だった。岩田は経営企画室長に就任させた。

次の課題はNOA(Nintenndo Of America。任天堂のアメリカ販売会社)だった。NOAの売上は任天堂の半分を占めるほど大きかった。そのときのNOAの社長は娘婿である荒川實だった。荒川實はこのとき、次期任天堂社長の呼び声高い名実ともに任天堂のNo.2だった。

しかし山内は荒川實を任天堂の社長にしよう、とは考えなかった。彼は山内の下で働くことでこそ輝く人材だった。そして山内が衰えた今、彼もまた衰えが見え始めた。彼は任天堂社長の器ではなかった。残念だが、彼に任天堂の命運を託すわけにはいかなかった。
そして同時に、彼がそのままNOAにいさせることもできなかった。もし山内溥が降り、荒川がそのまま居続けていたら、実質的なNo.1となった荒川と、新しく新社長となった岩田がバッティングし、二頭政治が起きてしまうかも知れないのだ。荒川は今後来る岩田体制のために降りることを余儀なくされた。そして荒川自身もそれを重々わかっていた。山内から降りることを言われる前に、荒川自ら辞表を書き、山内に差し出した。

山内溥はNOAが新体制に移行するために必要な人材を探していた。そして見つけたのが君島だった。君島は山内の誘いを受け、まずは当時人気が沸騰していたポケモン業務に携わった。株式会社ポケモンの設立を請負い、株ポケモン社長石原恒和と共に代表取締役へと就任した。そして得意の海外業務を活かし、ニューヨークのポケモンセンター設立に動いた。海外のポケモン人気は高止まりで安定した。ゲームソフトのみならず、グッズも、アニメビデオも飛ぶように売れ続けた。

そして2002年、スカウトした本人である山内が引退する。新社長は岩田聡。そしてNo.2であるNOAの荒川實も事前に引退した。
このとき、NOAは歴代の重要人物のほとんどが引退している。NOAのNo.2であるリンカーンは2000年時点で退任し、No.3であるメーンも2002年一月時点で退任している。岩田体制に移行するために彼らは去った。その後にやってきたのが君島である。NOA社長となり、岩田体制をスムースに動かすための潤滑剤として彼は動いた(同時にこのとき、任天堂本社の取締役にも就任している)。彼には山内のような独特の嗅覚や、岩田のようなずば抜けたカリスマ性はなかったが、海外での動き方を把握している上に、広報活動において高い水準の能力を持っていた。海外マーケティングの中心であるNOAの社長としては適格だった。

彼に任されたのは組織の再構築への時間稼ぎだった。岩田体制が完成に近づくには、まだもう少し時間が必要だった。各地より人材を募集し、NOAの新体制を作り上げていった。その中の一人がレジナルト・フィサメイ(Reginald Fils-Aimé)である。彼はニューヨークのVH1というケーブルテレビ局の上級副社長であったが、彼はこのテレビ局の対象年齢を引き下げ、若年層を狙う作戦を打ち立てた。この作戦は大成功し、VH1の評価は急上昇した。
その後、9.11テロの災害救援支援を目的としたニューヨーク市のコンサートに携わった。マーケティング担当となり、そして実際に3500万ドル以上を稼ぐことに成功する。

彼はこの成功により2003年、NOAにスカウトされ、そして入社することになる。役職はマーケティング担当上級副社長。NOAの中で任天堂の気質を学んでいく。そして2006年、彼はNOAの社長へとなる。彼こそ岩田聡のパートナーとして相応しい手腕を振るえる人材だった。彼が動ける体制を作り終え社長に座を譲った後、君島はNOA取締役会長に就任した。
このときの任天堂はシアトルマリナーズのオーナーであったため、君島はマリナーズのオーナー会議に参加し、野球観戦も行った。ちなみに山内溥社長は結局一度もマリナーズの本拠地に行ったことはない。

君島はレジー(レジナルトの愛称)の補佐をしつつ、DSとWiiの普及に尽力した。2013年にはNOAの取締役を兼務しつつ、任天堂本社の常務取締役ならびに経営統括本部長兼総務本部長についた。これには事情がある。

実はこのときの任天堂はWiiとDSの大成功を経て、再び苦境の時代に突入しつつあった。国内市場と北米市場においてはそこそこ好調の3DSだったが、欧州やその他の国においてはイマイチ振るわず、そのためソフト売上はDSの半分以下に落ち込んでいた。その上Wiiの後継機であるWii Uは、かつて苦戦を強いられたゲームキューブを大きく下回る販売台数で推移していたのである。

そして君島はWii Uに対しては「Wii U否定派」だった。彼はWii Uを見て直感的に「Wiiと比べて、如何に面白いか、どう違うのか伝えることはできないのではないか」と思った。消費者は違いがわからなければ購入しない。「今あるWiiでいいではないか」と思われてしまったら、駄目なのだ。
しかしこうした見方は当時の任天堂の中では少数派であった。世界中の任天堂の多くのスタッフが「これは売れる。なぜならWiiの後継機だからだ」と思い違いを起こしていた。ローハンキングフルーツという言葉がある。木に果物が熟してぶら下がっていて、あとはそれをもぎ取るだけという状況。任天堂はまさしくこの状況だと思い込んでいた。
2012年のスタートダッシュにWii Uが失敗してから、岩田社長はすぐに動いた。否定派だった君島を呼び寄せ、彼を本社の常務取締役へと昇格させたのである。

そこから任天堂の社内は再編された。
今までも合議制を取っていたが、それをさらに改良し、ハード部門の竹田玄洋専務、ソフト部門の宮本茂専務、そして経営部門として君島常務が担う。そしてその取り纏め役として岩田社長が手腕を振るう四人の合議制となった。

経営担当としての君島の手腕に独創性はなかった。なかったが、それはかつての山内の精神を引き継ぎ、かつ現代版にアレンジされたものだった。
Wii Uの失敗を事前に察知したのもそれが根本にあったし、かつそれをどうリカバリーするのか、任天堂なら出来ると言うことを君島は知っていた。
君島は任天堂に入ってからその根本に流れるものを深く理解していたのである。

任天堂のDNAの一つは朝令暮改。彼が任天堂に入ってきて驚いたのは、この言葉をポジティブな意味合いで使っているからである。本来の意味合いとしては「やろうとすることをコロコロと変えて周りの人を混乱させる」という例えだ。しかし任天堂の社内では「一度、これだと思って決めたことでも、間違いを見つけたら躊躇することなく、即座に施策やアイデアを修正すること」という意味で使われる。間違いがあったら即修正するのだ。君島が呼ばれたのもこの朝令暮改があったからだった。

二つ目は「天に任せる」である。任天堂の社名の由来にもなっているこれは、まさしく任天堂の根底にあるDNAの一つだった。如何に優れたゲームソフトであろうが、もし他社のソフトが一週間早く発売されていて、かつその方がユーザーの好みに合致していたらとしたら……売れるはずがないのだ。
逆にさほど優れているわけでもないという評価を得ていたゲームソフトでも、何かの拍子でミリオンセラーになってしまうかもしれない。その違いは何なのか、もはや「運」であるとしか言えない。
「人事を尽くして天命を待つ」という言葉の通り、人事を尽くした後は天に任せる他ない。……しかし任天堂には「人事は尽くせるものではない」という精神もある。やれることをやり、精一杯努力したあとでも、結果が出た後で「ああそうればよかった」「こうすれば少し違った」と後悔することばかりだろう。
だからこそ全てやり尽くした、などと思わず、徹底的に尽くす。任天堂のゲームソフト開発のDNAの一つだ。

三つ目は分相応である。任天堂は資金経営面で見ると非常にアンバランスで不自然な会社である。高いキャッシュバランスを保持しており、不動産投資などには手を出さず、無借金経営である。業務を多角化することに非常に慎重で、極端な人員増員も、積極的な他社買収も行わない。
かつて不動産投資を行うか検討することもあったが、結果バブル崩壊に巻き込まれずに済んだ。
そのため任天堂は本業であるゲーム部門には投資は惜しまないものの、そのほかにやたらめったら手を広げるような真似はしない、分相応な経営を心がけていた。任天堂は大きな会社ではない。もてる力は分散せず、身の丈に応じた経営こそ良いと認識していた。

これらの策定に関して、君島は関わっていない。かつての山内社長時代に培われたものである。任天堂の常務取締役となった後は、この精神を引き継いだ経営を行っていった。むやみやたらに業務を拡大するわけではなく、やれることをやり尽くし、そして間違いがあれば修正する。

新体制は次第に機能し始めた。

Wii Uの根本的なリブートは難しそうだった。ならば全く新しい新規プラットフォームを作り上げ、長年の課題であった据え置きと携帯の統合をなし、開発環境の統合を行う。さらにWii Uで生まれた新規IPを惜しげもなくつぎ込む。

開発コードNXが動き出した。

その矢先だった。2015年7月、未だNXがその全容を露わにしていない頃、岩田社長は亡くなった。

49日を過ぎ、任天堂の社長に君島がついた。社内的な混乱を経ての結論だった。

君島は本来であれば社内的な若返りを図り、生え抜きである古川俊太郎がその座につくのが相応しいと考えていた。
古川は世界を飛び回りポケモンとWiiのヒットを支え、さらには岩田社長の秘書を行っていた。彼の隣で経営を学び、人心掌握の術を学んだ。岩田流である「部下との面談」を大事にし、実際に欧州現地法人の管理本部長に在籍中、岩田社長のアドバイスに従って8つの部門の部下それぞれに毎週面談を行った。その結果、組織が効率的に回るように改善されていった。君島が山内の弟子ならば、古川は岩田の弟子といえるのではないだろうか。

しかし彼はこのとき44歳だった。岩田聡が社長就任したときが43歳であるから決して早すぎるとは言い切れないが、岩田は34歳の時点ですでにHAL研究所の社長に就任し、かつ6年で経営再建に成功している。もう少し時間が必要だった。彼を経営企画室長に就任させ経験を積ませることにした。かつての岩田と同じポジションだった。

必要なのは組織の再構築への時間稼ぎ。そのような状況をくぐり抜けた男と言えば……かつてのNOAで、見事にレジーへバトンを渡した君島以外あり得なかった。古川が育ちきるまで、彼は任天堂の顔になることとなった。いや、なってしまった。

日本の一部の開発者からは「顔も名前も知らない」とすら評されてしまった君島だったが、海外ではそうではなかった。長年の海外暮らしにより、あらゆるところにつてがあった。EAのアンドリュー・ウィルソンCEOとは一緒にゴルフをしたことがあるほどの仲であり、他マイクロソフトの上層部やアメリカ議員にも面談を行っている。マリナーズのオーナーであったことがここで生かされた。彼は「アメリカは人脈が世界をつくっているとも言える」と語っている。

君島の使命は時間稼ぎであり、そして岩田社長の残したNXを軌道に乗せることだった。山内からなんども「この業界にあるのは天国と地獄だけ。中間はない」と言われていた。なんとかして、次のNXでは天国を見たいという思いがいっぱいだった。

NXのコンセプトは明確だった。携帯機と据え置き機の融合。携帯できる据え置き機。同じゲームソフトが持ち運べ、瞬時に切り替えられる。なるほど、理想はわかる。が、現実はどうか。
Switchと命名された実機が君島の元にやってきた。それを触った瞬間、君島には「これだったら大丈夫だ」と天啓が降りた。かつての山内のような勘が走った。

しかしどんなに素晴らしいゲームハードだとしても、ソフトがなければタダの箱だった。2016年の年末商戦が近づいてきた。新ハードを発売するには逃すわけにはいかなかった。しかしハードの生産はともかく、キラーソフトである「ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルド」の発売は間に合いそうになかった。開発が遅延していたのである。

君島は判断に迫られた。納期優先で無理させたゼルダの伝説と年末に同時発売すべきか、それともゼルダの伝説だけ遅らせて発売するか、Switch自体の発売を遅らせるか。

人事を尽くして天命を待つ。人事は尽くせるものではない。しかし、だからといってやらねばならないことをならなくていい理由にはならない。君島はゼルダの延期を決め、そして同時にSwitch発売も年末商戦から見送った。通常ならばあり得ない判断だった。年末商戦は一年のうちもっともゲームハードが売れる期間だからだ。


しかしこの判断は吉と出た。発売を遅らせたことにより、Switchの初期出荷を増やせた。一気にハードが売れる発売直後の需要にSwitchの在庫は応えた。そしてゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルドは歴史に残るレベルの名作に仕上がったのである。海外ではあまりの人気ぶりに、Switchを買うことができなかったユーザーが代わりにあの失敗作であるWii Uを買っていき、おかげで中古すらなくなったという伝説を作ったほどだった(ブレスオブザワイルドはSwitch、Wii U両方で出たマルチタイトルだった)。

君島はゲームの開発者の判断を尊重するトップだった。ゲームの開発に時間がかかるのを理解していた。そして若手が自らの判断で結論を出せる体制を整えていった。
ゼルダだけではない、ARMS、スプラトゥーン2といった各タイトルでは各作品のプロデューサーが最終的な権限を有している。その中で30-40代の中堅社員が自らの力をどんどん発揮できるようになっていった。販売部隊も若手が考案したアイデアや企画がそのまま通るようになった。任天堂は次第に若返り始めていった。

君島はマスコミのインタビューに対して「クリエイターもリーダーも若い人がやっていかないと駄目」と述べている。それにあわせて長年任天堂のソフト開発責任者だった宮本茂が第一線から降り、その席を高橋伸也取締役へと譲った。

並行してSwitchの拡販も続けていった。君島はSwitchの発売直後を「ゲーム好きな方に理解して貰おうと思った」と語っている。ゼルダの伝説 ブレス オブ ザ ワイルドの同時発売にこだわったのもそこだった。翌月、マリオカート8DXを出す。これは定番タイトルであり、ファミリー層にも訴求する。満を持した10月、スーパーマリオオデッセイが発売された。これにより初めての年末商戦、Switchは大爆発を起こした。すぐさま増産が決定し年間生産台数は1000万台から1500万台に引き上げられた。

地獄にいた任天堂は天国へと舞い戻ってきた。売上は飛躍的に伸びた。5000億円程度で低迷していた売上は、一兆円を超えた。これは君島が想像していた以上の出来事だった。三年間君島は任天堂社長の座につき、見事その仕事を完全に成し遂げてみせた。そしてそれを支えていたのは次期社長である古川だった。彼は従来と違う集団指導体制を完全に理解していた。君島は自らの役割が終われる時が来たことを実感した。

2018年6月、君島は任天堂社長の座から降りた。その席を古川に譲り、相談役へと異動した。

任天堂の社長になってしまった男は、その責務を投げ出さす見事に成し遂げて見せた。そしてすべきことを成し遂げたあとは、スムースに若手へと道を譲った。かつての山内が苦境に陥り、とても綺麗に行えなかったことを、彼は成し遂げて見せたのだった。

君島はインタビューにて語る。

「Switchだって何年かたったら必ず飽きられます。でも任天堂は次にまた爆発的に売れる物を必ず作ります」

週刊ダイヤモンド 2018/02/17号

かつての山内溥が語るような内容を、彼は胸を張って語った。彼は山内の精神を引き継ぎ、岩田の精神を引き継いだ若手へとバトンタッチしたのである。

-終-



参考文献

日本経済新聞 任天堂 「キャラクターを積極的に活用」 君島新社長一問一答

日本経済新聞 任天堂社長に君島常務 「カリスマの次」は銀行出身

産経新聞 「岩田氏の遺志を引き継ぐ」堅実さ光る銀行出身者 任天堂新社長 君島達己氏

日本経済新聞 任天堂社長 古川俊太郎氏(下)「天才社長」の隣で学ぶ

日本経済新聞 任天堂次期社長 古川俊太郎氏(46)硬軟使い分ける経理マン

週刊ダイヤモンド 2018/02/17号 特別インタビュー

経営者はいかにして、企業価値を高めているのか? : 京都大学経済学部・人気講座完全聞き取りノート

週刊東洋経済 2017/11/25号 任天堂社長インタビュー


あとがき:(本記事の脚色部分と事実との差異がどこかの解説があるので、必ずお読み下さい)


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