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親フィルターから自分の失望感を知った

子供嫌いだったのは失望から来る諦めだった

皆さんは『親フィルター』なるものをご存知だろうか。
とあるコラムニストの方のエッセイに書かれていたもので、
「自分の子供の話がメチャクチャ面白く感じる感覚」
のことを言うらしい。
つまり、他人が聞いても、全く笑えないエピソードを、
「この間、大爆笑したことがあって……」
と話し始める、あれである。
親である自分にとっては、とてつもなく面白い出来事として持っている話を、いざ他人に話してみても全く笑ってもらえないという現象が起こる。

これを読んだとき、私にもこう言ったことは無数にあったことを思い出した。
数人が集まったところで、自分の子供自慢になることが少なくない。
こうした場面に出くわした時、子供のいない私は“無”の気持ちでその時間をやり過ごしていた。感情がないのである。

結婚はしたが、子供がおらず、正直、子供が嫌いでもあった
子供なんて、臭くて汚くて、うるさいだけの、“害悪”しかないとも思っていた。
だからと言って、嫌悪感を抱くほどの感情も持ち合わせていなかった。

もちろん、知人の子供や親戚の子供とは、それなりに接していたし、可愛いですねと心にもないことを言っていたこともある。
それらは本心ではなく、子供という存在が私の中で締める割合は、かなり小さかった。無かったのかもしれない。

そんな時期に、他人から
「ちょっと聞いてください! うちの子が昨日、とんでもなく面白いことを言っていて……」
という話を聞いていた時の気持ちというは、何の興味もないことを聞かされている、地獄のような時間だった。
しかも自分の子供の話となると、時間を忘れるらしく、何度も何度も同じ場面の話を繰り返す。こちらが聞いていないのに、それに気づかずに話し続けている。
「ドラえもんの歌の最後の方に出てくる“アン・アン・アン”のところを、“アン・アン・アン・アン”と、4回言うんですよ〜笑」
と親である本人は大爆笑しているが、こちとら全く面白くない。
人というのは、自分の子供の話になると知能指数が下がるものなのかと、真剣に考えたこともあった。

子供に関して、関心の“かの字”も無かった私が、少しだけ変化したのは、中年と言われる年齢になった頃だった。
将来を考えたとき、私には子供がいないことが、致命的欠陥のように感じた。自分が生きた証を託す人がいない。今まで得てきた知識や経験を、自分の中だけで終わらせてしまうことに一抹の寂しさが襲ってきたのだ。
「自分の経験を若い人に伝えてきたい」
そう考えるようになったとき、子供という存在に対して嫌いだと言っている自分自身が、とてもつまらない人間になっているような気がした。
「子供に本を読む面白さや楽しさを伝えていきたい」
読書が趣味だった私は、本によって救われることが多かったため、本という媒体がこのまま廃ってしまうことが寂しく感じていた。だが、子供たちに本の楽しさや面白さを知ってもらうことで、これから先も本を守っていくことにつながっていくのではないか。そう考えたのだ。

すると、不思議なことに以前よりも、他人の子供が可愛く見えるようになった。
それでも、子供に対しての苦手意識は消えなかった。
やはり、他人の子供自慢とも取れる、『親フィルター』の話には苦痛しか感じていなかったのだ。
「こんなことでは、子供に伝えるなんて無理だろうな」
と、半ば諦めていた。
そんなときに友人が『放課後デイサービス』という事業を立ち上げた。簡単に言うと、障がいを持った子供たちを、放課後にあずかるサービスである。
それに誘われたのだ。
私は子供に抵抗を感じていたものの、最初の頃よりは克服していたのもあり、友人を手伝う意味でも「やってみよう」という気持ちになった。

この転職が私の人生を大きく変えた。
子供が懐いてくる。
ダウン症の子供も、発達障害の子供も分け隔てなく懐いてきた。
「才能です。こればっかりは努力ではどうしようもない部分です」
子供が懐いてくるのは、才能らしい。どれだけ努力しようとも、自分の力では変えようがないことらしいのだ。

猫嫌いだった私が、たまたま猫を拾って育てたら誰よりも猫好きになったように、子供嫌いだった私に子供が懐いてきたら、たとえ他人の子でも、とてつもなくかわいい存在になった。
嫌いなものを好きになるというのは、人生を大きく変える。
それまで見たことのない景色を、子供たちは見せてくれる。

自分本位で、
「子供たちに本の素晴らしさを……」
などと言っていた頃には感じなかった、心から子供たちの将来を考えて、本の素晴らしさを知ってほしいと思うようになった。
臭くて汚くて、うるさいだけの子供たちが、輝いて見えるようになった。
子供がいない私には、一生感じることができない感情だと、どこかで諦めていたのかもしれない。
今にしたら、そうした諦めが“子供嫌い”という、ひねくれた形で出ていたのかもしれないと思う。
身近に感じると、誰の子でも愛おしくなるのだ。

それから程なくして、知人の子供の話を聞いた。
何でもない、今までなら少しも笑えなかったくだらない話が、めちゃくちゃ面白かった。

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