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読書は選択肢ではなく消去法

選択するまでのプロセスが自分を平凡には納めない

「読書が好きです」

もう何年になるだろうか。
ずっと自分は読書が好きだと思い込んで生きてきた。
そのため、自分を紹介するときには、読書好きをアピールすることが多かった。
しかし、本当に読書が好きだったのだろうか。
他にも好きなことはたくさんあったのではないだろうか。

自分で選択していても、それが選択になっていないことがある。
逆に、自分では選択しているとは思っていなくても、選択になっていることがある。
こうしたことを『運命』や『運』と例える人もいる。
つまり、“あらかじめ決まっていること”として片付ける。
しかし本当にそうなのだろうか。
あらかじめ決まっているのなら、どのような行動を自分が起こそうとも、結果は決まっているのだろうか。

私は読書が好きだと公言してきた。
人からは、「どうしてしてそんなに本が読めるのか?」と言った類いの質問を受けることも多い。そのためか、「自分は人よりも本を読むことが好きなのだ」と思い込んできた。
しかし今、読んでいる小説の中に、こんな一説があった。
「人のことが嫌いだったから、本を読むしかなかった」
この一説を読んだとき、私の中では“ある答え”が出た。
私の場合は、人のことが嫌いなわけではない。むしろ、人のことが好きな方の部類だと思っている。ただ、人のことが好きなのだけれども、人といつまでも話していたいとか、四六時中人と関わっていたいとか、そんな気持ちは毛頭ない。
ただ、一人になることは辛い、一人になることは寂しい、と感じている。

人のことが好きなのに、人と常に関わることを面倒に感じていて、それでも一人は寂しい。
そんなわがままな私の欲求が、読書に向かわせたのではないかと思うのだ。
つまり、消去法である。
自然な流れとして、読書をするようになったのである。
自分の人に対する距離感と、本と人との距離感が見事に一致したのだ。
こうした、他人との距離感というものは、人によって様々だ。
人との距離感が近い人にとって、人との距離感を近づけるだけで疲れてしまう人の気持ちはわからない。
逆に、人との距離感が遠い人にとって、人との距離感が近しい人がなぜ疲れないのかが理解できない。
こうした人々が集まった集合体が、私たちなのだ。

そのように考えた時、私は読書が好きで好きでたまらなかったわけではなく、「一人になることが嫌だったから読書をするしかなかったのだ」ということに気がついた。

人とは関わっていきたい。
しかし、人と関わりすぎると、疲弊してしまって、日常生活が送れなくなる。
このような場合には、本は最適なツールとなる。
適度に意見を聞くことができる上、「もうお腹いっぱい」となった瞬間に距離をとることができるのだ。
もしかしたら、私の人間関係がうまくいかない原因は、こうした読書の距離感が染み付いているからかもしれない。
言うなれば、勝手に近づいて、勝手に離れる。自分勝手な生き物となっている。

人間関係というものは、無理をしても、今まで費やした時間を無駄にしにないように取り計らう作業と言ってもいい。
一度お互い同意の元に築いた関係を、自分勝手に壊すことは許されないのだ、
婚約破棄のようなものだ。
勝手に浮気をして、勝手に離婚届を突きつける最低男に近い。

こう考えてみると、私は心から自分を卑下してしまう。
社会不適合者だと思ってしまう。

そんな私にも、一筋の光が差した。
それが、読書なのだ。
現実社会の中では、私の考え方は暗く悲しいものになる。
しかし、本の世界では、こうした考え方でも躍動している登場人物が数多くいるのだ。
生き生きと生きている登場人物が、悩み苦しんだ挙句、試行錯誤しながら前進する作品も数多くある。
こうした登場人物を見るたびに、私は一人ではないと感じることができる。
人間関係を築く上で必要な、人との距離感を掴むことがうまくできなくても、成長することができるよ、と語りかけてくれる。

私は読書が好きだったのではない。読書しかなかったのだ。
現実社会や映像、音声など、あらゆるコミュニティの中でも、“読書という距離感”が丁度よかったのだ。私の距離感とピッタリだったのだ。
こうした、適度な距離感を手に入れたおかげで、何とか社会で生きることができた。
読書という距離感を手に入れることができなければ、おそらく私はもっと社会不適合な人物となっていただろうと推測される。

人生には自分で選択したと思っていることが多い。
何でも、自分で選択することができると思っている。
しかし現実には、選択したことすら、意識せずに進んでいることの方が多いのだ。
その選択をする前に、その分岐点に差し掛かるまでも、選択であることもある。
意識していることだけが、選択であるわけではなく、今、この瞬間が選択の連続で成り立っていることを、私たちはつい、忘れてしまう。

「私は、読書が好きです」と言う前に、その好きになるまでのプロセスこそが、選択なのであって、人生なのではないだろうか。
現実社会では、多くの人が、偽って生きている。
「自分は“普通の人間”です」と、言わんばかりに。
しかし、現実には“普通”などは存在しない。
平均的な人間など、いやしない。

それなのに、「自分は普通」と言い張るのは、自分を守るための鎧に過ぎないのだ。
自分の本性を曝け出すことが怖くてたまらない。
だからこそ、自分を直視することができない。

人との距離感も、わかったふりをして、付き合っている。
でも本当は、わからないから近づこうともしないことが多い。
深く人と付き合ったりしない。
親友なんて持てない。そんなことを言って誤魔化している。

「自分は非凡だ」という鎧は脱いで、自分という狂気を曝け出してみると、もっと気が楽なるかもしれない。

本性を見せることを、恐るな。
自分を直視してみたら、自分が壊れることが怖い。
それは当たり前だ。
それでも、自分を見ることができることが、人生なのではないだろうか。

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