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自分は誰なのか

自分にとってのトカゲは相手との絆になる

「私が誰なのかわかりません」
先日、20代の女性に悩みを打ち明けられた。
彼女は職場でも、勤勉で、真面目な仕事ぶりが評価されている。
どちらかと言うとクールで、それほど人付き合いが上手い方だとは感じない人物だ。
そんな彼女が、自分を見失っている。これはただ事ではない。
彼女には、彼氏も家族もいて、普段は明るい性格だということだった。
「プライベートではおちゃらけていて、はっきりものをいう性格だね、と言われることが多いんです」
実際の彼女は、相手が何を言ってほしいかを想像してから、その筋道に沿った会話を演技のように交わしているということだった。
職場での彼女は、聡明でとてもそんな演技をしている様子は見られない。
考え方もしっかりとしていて、「変えられるのは自分だけ」であったり、「自分の外側で起こることはどうにもできない」といった意見を持っている。
こうした考え方は、自己啓発書に書かれている内容に非常に近い。彼女は案の定、読書を定期的にしているようだった。
こうした考え方を、職場では貫き通すことができるのに、プライベートでは自分を見失ってしまう。
こうした悩みは、50代になった私にとって、30年前に同じような経験をしたことがある。

私も人間関係には悩んだ時間が長かった。
「嫌いな上司がいる」とか、そういったことではなく、自分の立ち居振る舞いに悩んだのである。自分が誰なのか、わからなくなったのだ。
自分の消息が不明だった時期は長かった。
自分で言うのもおこがましいが、やはり職場では、同じように勤勉で真面目な働きぶりが評価されていた。
しかし、プライベートでは、人との距離感に悩んだ。
どのくらいの距離感で話したらいいのかわからないため、友人一人ひとりに合わせて、距離感を変えていた。それは、自分が決めた距離感ではない。その一人一人の友人が決めた距離感である。
相手が想像しているだろう距離感で、相手が想像しているであろう関係を築くように努力していた。
するとやがて、自分という存在を失っていった。
職場ではこういった距離感が明確である。特定の誰かと仲良くなる必要は全くない上に、自分が好かれる必要がない。
この理由は、職場で繋がっている人間関係は、会社という組織だからである。その人が好きだろうが、嫌いだろうが、『仕事』という一つの目標を達成するために集まった人たちの集合体だからである。
だから『仕事』さえできればいい。人に好かれる必要もなければ、人間関係という余計なことを考えなくてもいい。
しかし、プライベートは違う。
家族にしても、友人にしても、ここで築かれている人間関係は、『絆』のようなものである。その絆がなくなってしまったら、終わってしまうものだ。
しかも、失いたくないものだ。失ったら一人ぼっちになってしまう。
そういう部分を考えてみると、『絆』で繋がった人間関係の方が、脆く儚いものに感じてしまう。だから、何よりも大切にしたい。
こうした思いが、相手が期待している人間関係を保とうとすることへと繋がっていくのだ。

彼女が言う、相手が何を言ってほしいかを想像してから、その筋道に沿った会話を演技のように交わしているというのは、そうした人間関係を失う恐怖から来るものだろう。
何よりも大切に思っているのだ。
「相手から期待される人になりたい」
そう言う彼女は、相手に期待していた。
自分が期待する答えを導き出すために、自分の言葉を決めて話している。
自分を出すことが怖いのだ。
自分を出していくことで、相手の期待を裏切ってしまうのではないかと考えてしまう。
これについて、ふと、「西村ひろゆきさんの話に似ている」と思った。
子供の頃にトカゲが好きだったひろゆき少年が、同じマンションに住むおばさんに、トカゲをバラまいたそうだ。
いたずらではなく、親切心で。自分がトカゲが好きだから、みんなトカゲが好きなんだと誤解していた。すると、大変怒られたらしいのだが、それを「恩をあだで返された」とひろゆき少年は思ったそうだ。
そのときに、ひろゆき少年は「自分がやったことに対して、相手がどう思うのかはわからないものだな」と学習したそうだ。
つまり、相手の反応を期待して行動することは、不可能に近いということである。
相手が喜ぶであろうと思えることをしても、喜ばないかもしれないし、ひろゆきさんの事例のように、怒られることもあるかもしれない。

確かに、自分の好きな人に喜んでほしいと思う気持ちがあるのは当然である。「笑ってほしい」と思い「楽しいと思ってほしい」と思う。
しかし、トカゲをバラまくことも動機は同じである。
喜んでほしいからバラまいた。
どれだけ傍目に「そりゃ怒られるよ」と思われても、自分の思いはまっすぐだ。
「喜ぶ笑顔が見たい」
そうした真っすぐな気持ちが、相手に伝わらないこともあるだろう。
でも、彼女の真っすぐな気持ちを、真っすぐに受け止めてくれるのもまた、家族であり、友人なのだ。
自分が好きなものと、相手が好きなものは違っていても、相手を思う気持ちは一緒なのではないだろうか。

だってそれが、絆だからである。

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