見出し画像

遅いインターネットは自分を育てる

結論を急がない事は成長する事なのではないか

インターネットを使っていない人はいないだろう。
今や、スマホの普及率は言うまでもなく高い。
スマホの経済効果は計り知れないものだが、一方で私たちの頭の中にはどのような影響をもたらしているのだろうか。
こうした内容は、『スマホ脳』などに挙げられるように、多くの書籍やメディアでも取り上げられている。
中でも、宇野常寛さんの出版した『遅いインターネット』の内容は、専門的な知識も必要とせず、すんなりと理解できる内容となっている。

本書で言われていることは、単純明快である。
「アクセスしてから答えまでが早い事がインターネットの特徴なら、アクセスするまでのスピードを“こちら側が調整する”ことによって、早くすることも遅くすることもできる」というものだ。

これはつまり、「考える時間をもて」と言うことと同意として私は捉えている。
一旦、自分の頭で考えてみる。
これだけのことを、私たちは放棄しているのである。

「メタバースって何?」
「NFTって何のこと?」
会話の流れによって、こうした疑問に直面した時、簡単に「調べろよ」と言ってしまう。なんなら、知っている知識であったため、そのことを話しても、同じようにスマホやPCで調べられてしまう。
そして、調べた結果をもとに「合っている」や「間違っている」と、その情報を精査する。そしてその情報は、“その時だけに役に立って情報”として、記憶もされずに捨てられる。

このような時代だから、情報を売ることではお金を取れなくなった、と言われている。
情報とはいったい、なんなのだろうか。
調べて、すぐに手に入れられて、すぐに役にたたなくなる。それが情報なのだろうか。

作家であり、先日お亡くなりになられた伊集院静さんが、生前、このようなことを言われていた。
「すぐに手に入るものは、すぐに役に立たなくなる」
これは本質ではないかと思うのだ。
どのような情報であれ、その情報を手に入れるための努力をすることは重要であるように思う。
現代では、1日の情報量が、平安時代に生きた人々の一生分の情報量だと言われている。現代と平安時代では、寿命も違えば時間の流れる速さも違う、そんなふうに考えて、同じライン上の出来事として考えない事が多い。
しかし、本当にそうなのだろうか。

たった20年前、2000年に入ったばかりの頃は、情報を手に入れる方法は図書館や人から聞いた事だった。
考える時間があった。
その考える時間が、私たちが情報を手にいれるまでのタイムラグと合致していたのだ。
そのため、考える事ができた。
考える事ができることによって、自分の成長を感じる事ができた。
「以前はこれほど深くまで考える事ができなかったが、私の知識が深くなっているためこのような難しい問題を予想する事ができるようになった」
このように自分を評価する事ができた。
客観的に、自分を見る事ができたのである。
内省することと、学びは直結していたのだ。

しかし現代では、“わからないことは無くなった”と言ってもいい。
わからなければ、調べたら済むのだ。
考える余地もない。
そこには、『情報の均一化』がある。
誰もが、同じ情報を共有しているのだ。
その情報が、単一的なものの見方をしていても、そんなことには目もくれない。
偏った情報だとしても、そんなことに気づけるはずもない。
同じ情報を、間違っていても、共有する。
そして、意見の違う者が現れると、その人間を一斉に攻撃する。
「お前は間違っている。俺たちが正しい」

これと、戦争と、何が違うのだろうか。
インターネットというのは、ある種の『宗教を生み出す』と私は思う。
(※ここで言うところの宗教とは、特定の宗教を示すものではなく、“過剰に同じ思想に偏った団体”という意味の比喩である)
皆が同じ思想になることは、とても恐ろしいことなのだ。
自分の事が正しいと思い込んだ人間ほど、怖いものはない。
このような思考は、平気で他人の命を奪ってしまう。

それを防ぐために、私たちは考える必要があるのだ。
インターネットに書かれていることを、“自分の頭で精査する”必要があるのだ。
この“ひと手間”が、自分の思考をコントロールすることになり、隣の人とは違った見方で物事を捉えることになる。

同じ目的を持ったもの同士であっても、違ったアプローチをすることによって、違った結果を生み出せる。つまり、集まった人間の数だけ、アイデアの数が発生することになり、人間の数だけ成功率が高まるのである。
そのために、友人や家族、仲間が必要となるのだ。
同じ意見の人間を集めて、自分の正当性を確立するためではない。

インターネットに手を伸ばす前に、まずは自分の頭で考えることをオススメする。
それによって、インターネットで調べたことも、自分の知識の“一部”になるはずである。
インターネットを、自分の知識の“全部”にしてはいけないのだ。
それは、『宗教』の始まりなのだ。
(※ここで言うところの宗教とは、特定の宗教を示すものではなく、“過剰に同じ思想に偏った団体”という意味の比喩である)

まずは自分の頭で考えてみよう。
そして、自分の頭を柔らかくもち、あらゆる方向から思考しよう。
考えることは、成長の第一歩である。

とっても嬉しいです!! いただいたサポートはクリエイターとしての活動に使わせていただきます! ありがとうございます!