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小説家になりたい理由

何年かかっても小説家になりたいと考えている理由

私は小説家になりたい。
先日、友人と将来の夢について話していた時だった。
私は、本を出したいと言った。
紙の本を出したい。しかしジャンルは、小説がいい。
友人からは「なんで?」と質問が来た。

そのとき初めて、私は小説が書きたいと思っていることに気がついたのだ。
なんだか自分の中で、ガラクタのように漠然としていた目標が、明確になっていく音を、初めて聞いた。頭の中で、どんどんと組み立てられていく。

ライティングを習って、ライターになることも選択肢としてある。
しかし、私の記事は客観性が薄い内容が多い。
書いてみて感じるのは、どうしても客観的な内容というのは、情報となってしまう。それに、自分の内省を進めていくのには、小説の方が深く深くなっていうように感じる。

私の人生はもはや晩年に差し掛かっている。
残された時間が少なくなり、消費した時間の方が多くなってしまった今、「書くことでお金儲けをしたい」などとは考えることがなくなった。
つまり、書くことは私の人生そのものである。
本を読み、自分で考えたことや思っていることを言葉にして残す。
そんなことになんの意味があるのか、今はわからない。
しかし、そうすることによってでしか、私はこの人生を表現することはできない。

先日、平野啓一郎さんの『本心』を読んだ。
『私とは何か』や『マチネの終わりに』など、多くの本を読ませていただいている平野啓一郎さんの書籍は、私に大きな影響を与えてくれている。
『本心』を書いた平野啓一郎さんは、この作品を語っている中で、「一人称で書いたのですが、私は“ネクラ”なのかもしれません。書いているとどんどんと内省に入っていってしまう」と語られていたのである。
このセリフを聞いた時に、私の中で電流が走ったような感覚があった。
「そうだ。これだ」と思ったのだ。

私は『内省する読書』を掲げて発信活動をしている。
これは、読書をするだけではなく、自分の中にインストールすることによって、何を思って何を考えるのかが大切である。という思考法の一つである。
本を読むだけでは不十分なのだ。
そこから、“本に書かれていることを行動する”ことではなく、“本に書かれていなかったことをどれだけ読み取って自分の糧とするか”という意味である。

つまり、ビジネス書や自己啓発の類では得ることができない“本質”に目を向けることが重要なのだ。
「ビジネス書の類にも本質は書かれている」というが、それは著者がまとめた本質であって、自分で得たものではない。
誰のために本を読んでいるのか。
自分のために本を読むのなら、他人の言うことを鵜呑みにするような人生を送ってはならない。
自分で得て、自分で考えるのだ。
それを得るためには、ビジネス書に書かれている本質は邪魔になる。
「〇〇大学の先生が言っている」「東大生が教える」などという言葉に惑わされて、その言葉に流される。

人は誰しも、自分に自信などない。
だからこそ、誰かに後押ししてほしい。
だからこそ、自分の足で歩かなくてはいけない。
他人の言葉に流されてはいけないのだ。

ビジネス書しか読んだことがない人は、是非とも小説を読んでみてほしい。
小説には答えが書かれていない。
しかし、それでいても、本質は書かれている。
厳密にいえば、書かれていない部分に本質が隠れているのだ。
ビジネス書には、そうしたことはない。書かれていることが全てだ。
それは、ビジネス書はメソッドだからである。
目標を達成するために、最短距離で到達する方法だからである。
しかし、人生に最短距離が存在しないことは、年齢を重ねるほどに実感していく。
むしろ、年齢を重ねて感じることは、「人生はいかに遠回りするかによって、その人の深みが増す」ということである。

遠回りをするということを、多くの人は勘違いしている。
遠回りをするというのは、時間の浪費ではない。
「人生の貴重な経験をしている時間」なのである。
人生は、いかにさまざまな経験をしたかによって、人間性や人間力というものが力を増すものだと思っている。
どのような経験でもいい。
だから、昔の人は言ったではないか、「五十の手習」「六十の手習」「七十の手習」……。
いくつからでも遅くはない。
こうした挑戦は、最短距離とは対極である。
始めるのが遅いから、成果が出るのも遅い。
それは、人生にとって時間の浪費なのだろうか。
私はそうは思わない。

私の人生を変えたエピソードにこんなものもある。
ある日、ラジオパーソナリティが、こんな話をした。
「先日、新聞を見ていたら、小説家の新人賞の受賞者の一覧かあったんです。そんな中に八十五歳の方がいらっしゃいました。佳作でした。ペンネームだから男性か女性かも見当もつきません。でも、素敵ですよね。八十五歳になっても小説家になりたいと作品を応募しているんですよ」

私は頭を殴られた衝撃があった。
現代は小説の応募方法も複雑になっていて、小説を書く以外の部分でも、大変な努力が必要だと思う。それを、八十五歳の方がやっているのだ。
「何を言い訳ばかりしているんだ、俺は」
という気持ちになったのだ。

私は、自分が書くことによって、どこかの誰かを勇気づけることができるなら、何よりも嬉しい生き方であると言い切れる。

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