読書会が多人数になると面白くなくなる理由
読書会は少人数だから楽しいと感じる
読書会に参加した事があるだろうか。
私は、昨年末まで、読書会の主催をしてきた。
私が切に思うのは、読書会というものは、大人数では面白くないということである。
日本最大級と言われている“猫がモチーフ”の読書会に参加していた人も言っていた。
「読書警察のような人がいて、読書会のルールのようなものに乗っ取った読み方をしないと、執拗に攻撃を受けて最終的には辞めることになるんです」
これは、例外ではないと思うのだ。
どのようなコミュニティでもそうである。
私が昨年、二年間続けた読書会を辞めた理由は、「マンネリした環境を変えていきたい」という思いからだった。主催者である私も、読書会に参加している人たちも含めて、環境の常習化を避けるためだったのだ。
これは、向上心を持つために、やむを得ない決断だったと思っている。
しかし、コミュニティというものは、大きくなればなるほど、声の大きな人の声しか聞こえなくなってくる。少数派の意見というものは、取り入れられるどころか、聞いてさえもらえなくなる。
“コミュニティが大きくなる”と言っても、その大きさは様々である。
それは主宰者の力量によるところが大きく、それによって大きさも「このくらい」と言うことはできない。
それが、読書会では顕著に現れる。
大きな読書会では、冒頭にあったように、読み方まで制限されるなんてことも、珍しくない話となってくる。
本に読み方など存在しない。速読や遅読、熟読や精読に至るまで、読み方には様々あり、それぞれに特徴がある上に、それぞれにメリット、デメリットが存在するのだ。
「これがベストだ」などと、言うことはできないのである。
それなのに、読み方を制限され、「こうして読みなさい。さすれば、あなたも読書マスターになれるでしょう」などと言われるうちに、そんな気がしてきてしまう。これが、コミュニティの魅力であり、恐ろしいところなのだ。
メソッドを習うには、コミュニティは最強である。
所属している全ての人、とまではいかなくても、ほとんどの人が同じメソッドで行動している。これによって、同じメソッドで行うために湧き出る疑問や質問など、どんなことでも隣の人に聞く事ができる。
「気軽に質問できる」と言う環境が、コミュニティの大きな魅力である。
しかし、ひとたび外に目を向けると、自分が立っている場所が箱庭だとわかる。
小さな小さな世界である事が、自分の存在の小ささを思い知ることになる。
何度も言うが、本というものに正しい読み方“”などない。
どのように読んでもいいし、どれだけも読まなくてもいい。
一日に一冊読もうが、一日に一ページしか読まなかろうが、同じ『読書』である。
それなら、読書会もそうであるべきなのだ。
一ヶ月に一度開催される読書会では、「ひと月に一冊以上読まなくてはいけない」というプレッシャーがのしかかる。
「読書会には参加したい。でも、読めない」
こんな葛藤と戦ってまで、参加する読書会など、必要ないのだ。
読める人はいい。でも、読めないけれど、本が好き。そんな人もいる。
定期的に読書会に参加することは楽しいが、そんなにガツガツと本を読むわけではない。
そのように楽しんで読書会に参加することも、読書の楽しみだ。
しかし、「本を読んでいないのに、参加するなんて、どういうつもりだ?」と凄みを増して詰め寄る人も多い。そんな人は、本を読める人である場合が多いため、読めていない人は言い返すことすら、できないのである。
「おっしゃる通りです」と引き下がることになる。
もしくは、「こんなに本が読めていないのに、参加してもいいのか?」と、自分自身に余計なバイアスをかけてしまう人もいる。
参加してもいいのだ。むしろ、胸を張って参加すべきなのだ。
私の好きな言葉の中に、「学びはしなくてはいけないものではない。“したい”と思うことなのだ」というものがある。
この言葉は、『女王の教室』というテレビドラマの中で、俳優の天海祐希さん言われていたセリフの一部である。
学びというものは、能動的なものなのである。
誰に遠慮することではない。
そして、「本を◯冊読まなくては読書でなはない」などというガイドラインも存在しない。
学びというのは、もっと自由であり、もっと楽しいものなのだ。
楽しく読書会に参加して、何が悪いのだ。
小説しか読まないから、ビジネス書しか読まないから、スピリチュアル系の本しか読まないから、エッセイしか読まないから。何が悪いのだろうか。
どんな本でも読書であり、どんな本でも楽しく読めているのなら、それは間違いなく趣味である。
読めなくても、読書会に参加する事が楽しいのなら、それも立派な趣味である。なぜなら、他人が本について語るのを聞くことほど、楽しいものはないからである。思う存分、聞くがいい。私もそんな話なら、どれだけでも聞いていられる。
私は、現在、『ふたりだけの読書会』というものを開いている。
相手の型は特定の方であるが、毎月一度開催していて、お互い交互に主催を変えて楽しんでいる。
私が主催の時には、ただ、ダラダラと本について語り、相手の主催の時には、読んだ本について“ジャーナリング”をして『ジャーナリング読書会』を楽しんでいる。
少数であるため、自分の話をじっくりと聞いてもらえて、気兼ねがない。相手の話もじっくり聞く事ができて、本の話ならいくらでも聞いていられる。
こんな関係性が楽しいのである。
読書というものは、能動的で個人的な活動である。
そもそも一人で楽しむものである。
「あなたはなぜ、生きているのか?」
こんな問いに答えることに似ている。
自分自身の問題であり、他人に応える必要などない問いなのだ。
読書を楽しむために必要なのは、“楽しむ心”それだけなのだ。
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