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オタクの全肯定はおかしいのか?

こんにちは、ひがしです。
タレントの謝罪に対して「○○ちゃんは悪くないよ」と言った擁護や「気にしないで」「ドンマイ」と言った励ましのコメントが寄せられるのはVを追っているとよく見る光景だ。そして、こういったリプライには必ず「盲目オタクキモイ」「本人が謝罪しているのに擁護するのはおかしくないか」と言った批判が付き物で、この一連の流れはお約束となっている。今回は全肯定はおかしいのか?正論を述べる事だけが正しいのか?を考えてみたい。

現実での人付き合い

まず、現実社会における人付き合いにおいて、全肯定がおかしいという風潮を聞いたことがあるだろうか?むしろ批判や否定的な意見を述べる事の方が少ない。その理由としては「人間関係を円滑にする為」「むやみに敵を作らない為」等があげられる。

否定的な意見は、本人にとって有益である(有益性)と同時に心証を害する可能性(心証リスク)がある。この有益性と心証リスクを天秤にかけ、更に当人が指摘を受け取れる状態かどうか等を見極める必要がある。しかもこの心証リスクは非常に高く、多くの人が指摘した人に対して少なからず悪い印象を持つ様に思う。その為、現実社会では肯定的な意見や励ましの言葉で人間関係を重視し、否定的な意見は最小限にとどめる場面が多い。余程親密で信頼のある間柄であればお互いに指摘する事もあるだろうが、それも心証リスクが低い事を理解しているから出来る事だ。

ただし、例外もある。例えば「親が子に対して」や「教師が生徒に対して」「上司が部下に対して」と言った関係ではむしろ否定的な意見や指摘が目立つ。これは当人に対して責任がある為で、多くの場合その責任においてのみ否定的な意見がなされる。当然、こういった立場の人達が誰に対しても批判的な意見をするという事では無い。

そして、「子供の悪さに対して親以外が叱るのか?」「生徒が宿題をしない事を友人が指摘するのか?」「部下のミスを同僚が咎めるのか?」。私の感覚ではいずれも無い。それは心証リスクがあると同時に、私にはその責任が無いからだ。※ここで言う責任とは「間違いやミスに対する責任」では無く「その人物に対する責任」である。

また、指摘や𠮟責には「自分の為」にするという人や場面も多く見られる。そういった行動は感情に起因するものが多く、【思い通りにならないとキレてしまう人への対処法3選】によれば、”自分と違う考えに腹を立て、すぐに否定する” ”自分に都合が悪いことは認めたくない” ”気になることにすぐに口を出す。意見は建設的なものではなく、不満や文句が大半” ”プライドが高く相手の優位に立ちたい”などがあげられる。いずれも、自分本位で相手の気持ちを考えず、自身のプライドや考え、立場や利益のために相手を否定する。

ネットでの人付き合い

ネットではどうだろうか?私はTwitterやYouTubeのコメント欄をよく読むが現実とは大きく違う風潮である事がわかる。ネットではむしろ「誰かもわからない人」ほど正論によって相手を否定し指摘する。そういった指摘や批判では正論を述べる事こそが正義であり、心証リスクは考慮されていない様に感じる。そしてそれは「自分とは関係の無い人」であるほど顕著になる。例えば別の箱が推しであったり、別のコミュニティである場合だ。

恐らくこれは、ネットという環境が相手の存在を感じにくい為に生まれた独特の文化で、ネット社会に慣れるにつれて違和感を感じなくなっている様に思う。もしかすると、これが日本人の本質なのかもしれないが、現実社会とは大きく異なっている。

オタクの全肯定

さて、本題の「全肯定はおかしいのか」という話だが。結論から言うと、私は「全肯定はおかしくない」と考えている。

まず、オタクと推しの関係はそれほど親しい間柄とは言い難い。少し寂しい言い方だがオタクは客でしかなく推しに対する責任も無い。次に、昨今のネットにおける行き過ぎた言動を受けて「ネットであっても、相手が目の前にいるつもりで発言しよう」と言った論調は多く聞かれる。この論調で言えば「全肯定」はむしろ自然なリアクションであり、責任も無い他人に対して指摘や批判をする方がやや不自然とすら言える。

これに対して「悪い事は悪いと言わないと、勘違いするだろ」と言った意見もある。しかし、現実では実際に全肯定が大多数であるにも関わらず、勘違いしている人間は少数である様に感じる。その理由は、その人に対して責任のある人物が𠮟責しているからであり、稀に見る”勘違いしている人”はそういった人物が身近にいないのだろうと想像できる。であれば、ネットにおいても視聴者や外部の人間が批判しなくとも、その人に対して責任のある人物が𠮟責すれば問題ないだろう。タレントに対してその責任があるのは、マネージャーや運営であり視聴者では無い。

勿論、サービスを受ける客として、また推しの事を思えばこそ、率直な意見を述べる事が悪いとは思わないが、その範囲を超えるべきではないだろう。

関係が無いのに批判している人達

少し脱線するが、問題が起こった際に大量に現れる「関係の無い人達」について考察したいと思う。この人たちは日常的にタレントを見ているとは思えない。当然、彼らはタレントに対して責任は無いはずだが「正論」でもって容赦なく叩いている。これは心証リスクを無視して「相手がどのように感じるか?」を考慮していないからであり、タレントの為を思って批判しているわけでは無い。これでは、意見が正しくても対人関係としては間違えていると言える。

では、彼ら(彼女ら)は何故批判しているのだろうか?他人を批判する動機は複数あるが、前述したように「責任がある」「相手の為に」といった可能性は否定出来る。とすると残されるのは「彼ら自身の為」だ。例えば「相手の優位に立ち優越感を得たい」であったり「注目度から沢山の”いいね”をもらって承認欲求を満たしたい」と言った自分の利益の為に批判していると考えられる。

つまり、彼らは「タレントの不祥事」というイベントに乗っかって自分の欲求を満たす事が目的である。その為であれば貶める対象のあらゆる行動を否定するのだろう。だからこそ、関係も興味もない事柄に首を突っ込み「全肯定オタク多すぎて怖い」や「盲目バチャ豚乙」等といった論調で批判しているのかもしれない。なんせ、そういったツイートはよくバズる。

最後に

とはいえ、私が言うのもなんですが「雄弁は銀、沈黙は金」という言葉もあります。時には沈黙もまた正解なのかもしれません。ここまで読んで頂きありがとうございました。これらは私の個人的な考えです。ネットには様々な人間がいるので、私の考えのような方もいるかもしれませんし、全く違った考えのもと行動している方もいるでしょう。それでは、いつかネットで傷つく人がいなくなることを祈念いたしましてご挨拶とさせて頂きます。

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