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『3人で親になってみた』〜LGBTQでも親でもない私の独り言〜



フェンシング元女子日本代表でNPO東京レインボープライド共同代表理事を務めている杉山文野さんのエッセイ『3人で親になってみた』読了。

エッセイの内容はトランスジェンダーの杉山さんが自身の性に違和感を覚え、ご両親にカミングアウトし、試行錯誤しながらご両親と考えを通わせていく様子や、その後彼女さんと付き合い、彼女さんのご両親との関係を積み上げていく様子、やがて結婚し、お子さんを持ちたいと思い、ゲイのゴンちゃんの協力のもと、実際に「親」となり、新たな家族の形を模索していく様子が描かれている。

一見すると、LGBTQに該当しない私自身には関係のない、私とは異なる人たちのお話に見える。

実際、私がこのエッセイを手に取ったのは仕事柄LGBTQについて考えたり、関連するプロジェクトに関わる機会も多かったので、彼らの考え方を「学ぼう」と思ったからだった。

(誤解を恐れずに言うと、この思考の時点で、私はLGBTQの人たちと自分とは別の生き物である、として無意識に一線を引いていたのではないかと、読み終わった今は感じている)

でも、実際に読んでみると、決して「自分とは異なるLGBTQの話」ではなかった。(もちろんLGBTQならではの視点や難しさは含まれているとはいえ)

若い頃のご両親との行き違いも、杉山さんの場合はきっかけが性のことであっただけで、極々よくある親子のすれ違いだったし、子供を持つにあたっての悩みや葛藤も、一緒に悩む人が杉山さんの場合は奥さんに加えてゴンちゃんという親友が加わったというだけだった。(ちょっと語弊があると良くないので補足すると、もちろんLGBTQの人ならではの苦労や社会の壁、悩みがあるのは確かだ)

エッセイの中でいくつか印象に残った箇所がある。

「わからない」という相手に「なんでわかってくれないんだ!」ではお互い様、殴られたら殴り返すではキリがない。
だったら、まずは、僕が「わからない」というおとんのことをわかってみよう。
何かを親のせいにしているうちは甘えているだけ。いくら親とはいえ、代わりに僕の人生を生きてくれるわけではない。自分の人生は自分で責任を取るしかないのだ。
僕は親を親である以前に、いち個人として捉えるようになっていた。

これらのことは杉山さんがご両親にカミングアウトをした当時、ご両親との認識に差があり、わかってもらえないと葛藤していた頃を描く中で書かれていた言葉だが、私自身にも痛いほど心当たりのあるフレーズだった。これだけ見ても「自分とは違う人たちの話」ではないことがよくわかる。

子供について思い悩む中で描かれている言葉達も、耳が痛くなるような、私自身の心を抉るような、チクッとするようなものばかりであった・・・。

私自身はまだ子供もいないし、去年までは仕事仕事で結婚して5年、子供を持つということに真剣に向き合ってきたことはなかった。けれど、仕事がひと段落した今、少しずつ夫とそんなような話もしている。きっとエッセイの中で描かれていたことは、私自身がこれから悩み、ぶつかっていくことなのだろうなと思う。

つまり、杉山さんの『3人で親になってみた』は、LGBTQの人のエッセイである前に、「家族とはなんなのか」「人との関係を築くとはどういうことか」「人と人とのコミュニケーションはどうあるべきか」を実例を交えて問うものであるように感じた。






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