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死ぬ気で岩にしがみついて生きてやるという決意

明らかにここ数年で自分の中である変化が起きていることに先日気づいた。
その変化とは、「他人に縋らない生き方」から「隠し味に他力本願を入れた生き方」への意識改革である。
そんな意識改革が起きたのは何故なのか。年が明けるまでに解き明かしたいと思い、秋の深まりを感じる今時期に考えてみる。

他人に縋らないという思考に関する考察

まずは、「他人に縋らない」などと思いだした理由を自分の心理状態から考察していくことにする。
記憶を辿る限り、この思考に至ったのは中学生の時かと。当時学級委員(以下室長)を務めていた私は、ある時から人を頼ることを敬遠し始めた。これには理由があり、クラスのまとめ方などに思い悩み始めた時に室長会の担当教員に相談をしたことがあった。その教員は体育教師であり、授業で話す機会は多かった。そのためある程度の信頼を置いていたが、返ってきた答えは
何とも刺さらないような感情論的なものだった。しかし、助言を求めたのは自分自身であるためまずは試した。そしてしっかりと失敗した。そこから周りへの不信感ばかりが強くなってしまった。また、同時期に同級生への不信感も高まってしまったがために「他人に縋ってたまるか」という思考が生まれてしまい、今に至るまで人に頼りづらくなってしまったのではないかと考察できる。

意識改革のきっかけを探す

そんな過去があった私が何故意識の変化を起こしたのか。その理由は直感ではわからない。だからこそ掘り下げなければならない。とても恥ずかしいことではあるがやってみる。
中学生で他人への頼り方がわからなくなった私は、そのままの思考習慣で高校へ入学した。そこでバレーボール部に入ったが、それでもなお癖は治らなかった。むしろそこで新たな習慣を身につけた。
「自分の思いを飲みこむ」ことだ。これは前回の記事でも書いたことであるため、これ以上は書かない。こちらの記事で読んでいただきたい。

そして特に変化もなく、ひねくれたまま大学生になってしまい今に至る。
ようやく変化のきっかけを見つけた。それはアルバイトだ。
どんな仕事をしているのかは伏せるが、人にいろいろなことを言葉で伝えることをして働いている。
そこでこんな経験があった。「生きる意味って何ですか」という質問をされたことが一度だけある。それに対して私なりに言葉を紡いだ。そんな質問をされたことがないため、辿々しいにも程があるほどだったが伝えられることを相手にぶつけた。その後返ってきた言葉は「ありがとう、なんとなく生きる意味を見出せた気がする」というものだった。その瞬間に私の中で何かが起きたのだと思う。それ以降、「誰かに自分の考えを作ってもらうこと」の重要性を考えるようになった。これには大小あるとは思うが、自分の言葉がここまで影響を持つのだという驚きと同時に、他人という存在が持つ可能性の大きさに気付かされた。これ以降私も少しずつ人に頼れるようにしようとしているが、何せ人を信じられなかった男だから本当に心を開くまでは大変な時間を要する。そのための作業は今もなお続いており、現在進行形である。

とはいえ、人への頼り方はまだまだわからない

正直今は頼り方を模索しているところである。
だからこそどんなやり方が自分に合っているのかはわからない。それもあって、周りの方に迷惑をかけ散らかしている。この場を借りて謝罪したい。
「本当にすみません。」

21歳男性、秋の決意

ここまで書いておきながら締め方が見つかっていない。そのため私の決意と共に今回は終わろうと思う。
「私はどんなに流れが急だろうと岩にしがみついてしぶとく生き延びてやろうと思う。それが誰からも望まれずとも。」
今回は他人への考え方の変化について書き進めてきたが、その最中にふとこのことが頭をよぎったのだ。
この先私が人にどれほどまでに頼れるようになるかはわからない。成長が見えるごとにnoteを書いてやろうかとも思っている。ただ、バックボーン(少し気取ってみる)に人見知りを言い訳的に持っているため、人との距離感を測ることや人の話を聞くことには自信がある。そんな元来の自信と、これから変わるであろう自身をハイブリッド的に使えたらなんて、理想郷の話かもしれないがいつか果たすことができると信じてみようと思う。


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