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[読書メモ] くらやみに、馬といる / 河田桟

くらやみに、馬といる

立石の書店 POTATO CHIP BOOKS で偶然手に取った本。真っ黒なカバーと横長の珍しい装丁に惹かれて購入した。夜の暗闇で馬と過ごす不思議な体験を共有できる作品。これまでに読んだことが無いタイプのノンフィクション・エッセイで、文章には深い洞察と温かみがある。日々の喧騒から距離を置いて頭を休めたいときに読むべき一冊。

私は両眼の視力が0.1ほどで、ふだんは眼鏡をかけている。でもくらやみのなかでは眼鏡をはずしてもなんら問題を感じなかった。輪郭のぼけがほんのすこし強くなるくらいだ。どうということはなかった。ひとつ束縛から解放された気持ちになった。

くらやみに、馬といる|P.21

近眼の不便さは、日常の日中にのみ感じる価値観であること気付かされる。居心地の良い暗闇かつ自然の中においては、近眼の不便さから確実に開放される。

文章を書こうとするときは、頭の中でヒトの言葉を使って考える。それは、くらやみに慣れたあと懐中電灯をつけたときの感じにとても似ている。ひとつの言葉を選ぶことによって、それまで感知していたくらやみの濃淡やほのかな光が失われてしまう。

くらやみに、馬といる|P.25

言葉が表現できる限界について様々な有識者が語っているが、筆者独自の感覚と視点による表現が興味深い。確かに暗闇で見えていたものを明るみで見たとき、全く感じ方が違う。夜の森と昼の森の違い、暗い部屋で見る家具と明るい部屋で見る家具の違いなど、自分でも経験したことのある例は枚挙にいとまがない。
ここでは、暗闇の中で感じる陽の部分(温かみのようなもの)が、明るみの中では見えなくなってしまうことについて説明している。

もしも生き物としてのエネルギーが満ちているときに来ていたら違う反応だった、と想像できる。いっときくらやみの静かな時間を楽しんだとしても、きっと長くは続かない。やがて動きだしたくなっただろう。なにかをしたくなっただろう。

くらやみに、馬といる|P.46

周波数によって聞こえる音や見える色が変わるように、自分の状態によって感受する世界は違ってくる。

くらやみに、馬といる|P.46

同じ本を読んでも年齢によって感じ方が変わる。同じ景色を見ても自分のメンタルコンディションによって感じ方が変わる。老人になってフィジカルなエネルギーが少なくなった時には、さらに感じ方が変わるのかもしれない。その感じ方はどこか達観したものになるような期待感がある。

ここは懐かしい場所だけれど、私が自分ひとりで辿り着くことはなかった。馬という他者の存在があって初めて来ることができた。

くらやみに、馬といる|P.55

「ここ」とは「くらやみ」が生み出す自分だけの特殊な空間のこと。ただ暗いというだけではなく馬というくらやみを共有する存在が必要だったことを説いている。経験したことが無い境地だが、妙に腹落ちする。

ヒトの社会でふつうとされている感覚と、自分のなかに生じる感覚にかなりの違いがある場合、そもそもヒトの標準OSと自分のOSが違うものだと仮定すると、いろいろなことを説明しやすい。

くらやみに、馬といる|P.67

ヒトの社会で動きがちぐはぐになる者は、ある割合でいるにちがいない。生まれつきのOSでそのまま暮らすことができればいいのだろうが、そうはいかないから、見かけよりたくさんのエネルギーを使い、ヒトの標準OSをエミュレートして生きている。

くらやみに、馬といる|P.67

・OS(Operating System):コンピュータの基本的なシステム機能を提供するソフトウェア
・エミュレート(emulate):システムや機能を別の環境やプラットフォーム上に模倣して動作させること

ヒトが社会生活を営む上での共通的な言動の基盤を標準OSと呼んでいる。標準OSを持っていない人々は、エミュレートして無理に標準OSを使っているという表現は言い得て妙である。
ヒトの標準OSは日々進化している。ソフトウェア(メンタル)の進化に対して、ハードウェア(フィジカル)の進化が追いついていない様にも感じる。メンタル不調を訴える人々が年々増えていることにも関係しているかもしれない。

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