生活と音

生活、つまり、普段の暮らしの中で生まれてくる音に敏感になる。

マリー・シェーファーの、サウンドスケープ的に。

それらの音を使って、音楽を作る。

と、いうような意識で「うちで踊ろう」をもとに、「うちで淹れよう」というものを作ってみた。コーヒーを淹れるという生活の一場面だけで生まれる音を使って。(一見ふざけているように見えるかもしれないが、結構真剣に作った)

そうしてわかったのは、音が出るものは、すべて楽器に「なり得る」ということだ。そして、こういう行為、営みを通して、身の回りの音、生活の音に敏感になる。

サウンドスケープ、という概念は知ってはいたが、これはやってみないことにはわからないのではないだろうか。こうして、この文章を打っているときにも、キーボードをタイプする音に意識がいく。おそらく、文章を打つ人に独特のリズムで音が刻まれていく。窓の外から車の音がする。エアコンが暖気を吐いている。座っているソファが少し軋む。と思えば飛行機が飛んでいる音がする。

意識しないだけで、どれだけの音に普段囲まれているのだろうか。そして、それらはすべて、楽器になり得る。そういう視点で音を聴くことができるようになる。

おそらく、太古の人は現代人より遥かに生活音に敏感だった。狩猟や縄張り争い等々、音への感度が、自分たちの命を決めていた。今では、音は溢れすぎている。そして、そのすべてを常に感知することはおそらく脳にとって相当な負担なのだろう。だから、無視することに慣れていっている。

そして、その音への鈍感さは、生活音だけでなく、「楽音」でさえも、無視してしまうことに繋がるのだろう。自分も含めて、現代は音楽へのスルースキルが非常に長けている。聴きたくないものは、聴かないように意識することができる。スルーできる。聴きたいものだけを聴く。そして、音に対する感度はさらに低下していく。

生活音に敏感になるだけで、「耳が開く」感覚をもつことができる。そして、その状態で「楽音」を聴くならば、いっそう深く聴くことができるはずだ。様々な視点で。楽音に混ざる息のかすれた音、弦を擦る音、打楽器の皮の擦れる音なども意識にのぼってくる。静寂も。

音楽を聴く、それ以前に、「音を聴く」ことを重視すること。完全な無音は存在しない。どこかで、何かが鳴っている。それに気づくこと。

音楽を聴くことは、まずそこから始まるのかも知れない。






おそれいります、がんばります。