浮き沈みと立ち位置の自覚

個性の尊重、主体性を育む、などとよく言われる。

そしてそれと同時に、協調性が大事だ、と言われる。

一見矛盾しているように見えるこれらの概念を、どう結びつけたら良いのか。

まず個性、主体性とは何か、について考える。

個人、個性とは、その言葉からして一見他者から独立し、干渉されない存在だと思われる。が、本当にそのようなものなのか。

平野啓一郎の分人主義に代表されるような、個人、個性というものは他者との関係によって決まる、という考えは、個人や自己というものを考える上で今や当然のものとなっている。

この説に従えば、個人、特に個性とは他者との関係で決まる。さて、これをタイトルにもあるように「浮き沈み」で考えてみる。

他者、というものを平均と考えよう(他者を複数人想定する)。いわゆる教育や社会の中で尊重する、育てられるべきだ、と言われる個性は、ポジティヴな個性、つまり平均以上の個性、尖ったもの、「浮いたもの」(ネガティヴにいえば)だろう。つまり、他者の中で個性が光る、突出するとは、平均以上の何かが個人に備わっている、とする見方だ。

平均から逸脱していること、これを個性だ、とみなすのならば、平均以下であっても、個性になりうるだろう。この個性を「浮いたもの」と対照的に「沈んだもの」と言っておこう。しかし、この言ってみれば下方向の個性はあまり話題にされることはない、むしろ避けられるもののように思える。

だが、思い出そう。個性とは、他者依存的なものだ。つまり、周囲の他者ーーこれは環境とも文脈ともいえるがーー次第で、個人の持つ個性は、平均以上にも以下にもなりうる。つまり、絶対的な正の個性や負の個性などというものはない(また、正の方向だとしても浮いているという言葉が使われるように評価は負の場合もある)。であるとするならば、個性は育つことができるのか。

個性を育む、という言い方にはそれをポジティヴな方向に持っていこうとする意図が感じられる。しかし今見たように、むしろ個性の正負の方向性は、環境や文脈という他者によって構成されるものによって決まる。それは、いつまでたっても正の方向のものかもしれないし、負の方向のものかもしれない。育てることができると仮定したとしても、それが必ずしも正の方向の個性になるとは限らない。

では、どうしたら良いのだろうか。

個性を育てることはできないかもしれないが、個性を生かすためにはどうすれば良いかということについては教えることができる、もしくは個人が学習することができるかもしれない。

ここで、冒頭に出てきた協調性という、一見個性と矛盾するような概念が生きてくる。

個人に「自分が属する文脈にとって、自分の持つ個性はどの方向性のものかを自覚させ、その上で自分の個性がどのように生きる(もしくは個性を発揮しない方が良い場面もあるだろう)のか」を考えさせること。それが個性の生かし方であり、協調性だ、ということになるだろう。

そして、この意味で協調性は個性を殺すものではない。むしろ、自分の個性に自覚的になることで、自己のかけがえのなさやオリジナリティに気づくことができ、また他者に対して敬意を抱くことができる。さらに、この個性の自覚と他者への敬意という契機によって、個性が育つ(決して育てるではない)ことはありうるだろう。

他者という環境、文脈における個人、個性に自覚的になり、その上で調整していくこと。他者という海の中で、自覚的に浮き沈みすること。時には波に乗り、時には流されまいとすること。決して無自覚的に流されるのではなく。それが個性を生かすということであり、個性が育つ契機となるのだと思う。


おそれいります、がんばります。