自筆年譜を書いた話
6月に第一歌集『翅ある人の音楽』(典々堂)を刊行した。私の2023年は歌集中心ですべてが回っていたと言っても過言ではないと思う。
去年(2022年)の11月に歌集の原稿をお渡しして、年末のうちに初校を出していただいた。ゲラに赤を入れながら年を越した。一部三校までいったページがあり(どうしても着地が安定しない歌があったのだ)、それを戻したのが4月の半ば頃。5月の連休前に校了して、見本を受け取ったのが6月の上旬。歌集発行日(6月24日)には、同日まで開催だった紀伊國屋書店国分寺店の「のんべえ大学詩歌学部」フェアに駆け込みでサイン本を置いていただくために、版元の髙橋さんと国分寺に走った。
お祝いやお手紙をたくさん頂戴した。9月に福岡で「塔」(所属結社誌)の大会があった時も、いい歌集に仕上がりましたねとお声がけいただいたりした。書評や時評で取り上げていただくことも、有り難いことに多くあった。
ただ、当の私自身は、歌集が出ても相変わらず、気分の波に左右されて動けなくことが多かった。なんとなく今は調子が良いなとか、幸せだなあと感じると、今度はいつ踏み外して転落してしまうのだろうかと不安になった。「幸せ耐性」が無さすぎると自分でも思う。
これは恐らく私の思考の癖なのだが、しんどくなると他人からの好意をすんなりと受けとめきれなくなってしまう。当初は単に筆不精で御礼が下手なだけかと思っていたが、どうも違うらしい。もっと根深いものがあるようだけれど、それが何なのか、自分でもよく分からずにいた。
そんな時、本屋BREAD & ROSESさんで歌集刊行記念フェアをやりませんか、というお話をいただいた。
どういう経緯とご縁でこうなったかについては、髙橋さんのnoteに詳しく書かれているので、ここではあくまで私個人の目線で振り返ってみようと思う。
影響を受けた本の選書、収録作の自作解題、果てはそもそもの掲示物のデザインまで(InDesignだけは毎年サブスク更新しているので、使わないともったいないので! と言って自分で引き受けた)。作るものはたくさんあったけれど、楽しい作業だったし、思ったほど苦も無く進めることができた。
ひとつだけ手こずったのが自筆年譜である。
そもそも作者の年譜って要る? という議論は今は措く(私自身は全集の年譜などを楽しく読む人間なので、それはそれとしてあると面白いよね、くらいのスタンスでいる)。与えられた掲示スペースはA4用紙2枚分。これが結構難しい。サイズ的には履歴書と同じなのだけれど、「卒業」とか「参加」とかを並べたところで面白くはない。かと言って、出来事の詳細を書き過ぎると溢れてしまうし、何より恨み節が滲み出して収集がつかなくなる。
それに、過去を書き起こすことは自分自身と否応なく向き合うことでもある。年譜に落とし込みながら、「あの時の私ってなんてダメな奴なんだろう……」「こんな踏み外し方をせずに済んでいたら、今はもっと違う生き方をできたかもしれないのに……」と、まあ見事に鬱々モードに突入してしまった。喉のあたりがヒリヒリして、呼吸が浅くなり、心音と耳鳴りが頭のなかで混ぜこぜになる。
ぐるぐると呻きながら考える。――そもそも、私という人間そのものが「失敗作」であり、私は「まがいもの」の存在でしかない、という偏った強迫観念はどこから来るのだろうか?
◆
私の本名は「洋幸」という。特に名づけの意味が込められていない名前で、従兄二人の名前を足して2で割っただけのものだと聞いている。名前の片方をくれた母方の従兄のことを私は何も知らない。両親が離婚したのち、母方とは完全に縁が切れていた。
不思議なことに、幼少の頃から母の記憶は一切無い。当時の家の間取りや家具の配置などは鮮明に覚えているので、そこだけ抜け落ちたと言った方が良いかもしれない。だから母の不在を意識するようになったのは、もう一人の親である父が死んだ後のことだ。そして、両親の離婚はけして穏便にすすんだことでもなかったことも知った。
祖母に育てられるということは、出て行った母親に対する祖母の憎しみに晒されながら生きるということでもあった。祖母の私に対する愛情はたしかなものだったが、同時に私のなかに「あの女」の血が流れていることについても容赦がなかった。もしかすると母も、こういう性格の祖母と向き合うのは苦しかったし、逃げたかったのではないか、と思うようになったのは、ごく最近のことだ。
父と母が出会わず、自分など生まれなかった方が、みんな幸せだったのかもしれない。いつしか自分はこの家の「失敗作」なのだと思うようになった。
幼稚園の頃、母の日や父の日に何をしたら良いのか分からなくて泣いたことがある。恐らくは、祖母や叔母一家が「親代わり」でいるんだから、と宥められたのだろうが、私はそれを悪いように受け取って、「代わり」はあくまで「代わり」でしかないという意固地を育んでしまった。生意気だ、お前には感謝の心が無いのか、と言われるたびに、親のいる子ならこんなこと言われずに済んだはずなのに、と思って更に心を強張らせた。得られたはずの何かを思うたび、自分という存在がどんどん「まがいもの」のように思われた。
勿論、大人たちだって誰もこんな事態を想定していなかったわけだから、普通じゃない子育てに対して日々悪戦苦闘していたのだと、自分も大人になった今は思う。「親無し」といじめられたと聞いてカンカンになって学校に抗議しに行ってくれたことだってあったから、愛情が無かったわけでもない。
ただ、私が自分の命がほんとうに在って良いものだと納得できるまで、辛抱強く待ってやる余裕など、平成の不況に晒されたあの家の大人たちには無かったのもまた、事実なのである。大人たちが気づいた頃には、私のなかにある「失敗作」かつ「まがいもの」であるという自己認識は、もう手の施しようのないほどに拗れてしまっていた。どんな思いでアンタを育てたと思っているの、と訊かれて、世間体でしょ、と答えて絶句されるほどに。
「まがいもの」という自己認識を引きずってしまうと、自我を確立する年になってからも自分の行動に対して責任を取らない癖がついてしまう。ある時点の「宿命」によって一度狂った歯車を、自力で直したり、どうにかしてやろうという気持ちが湧かず、自分を「失敗作」ではなくしてくれる他力ばかりを求めてしまうのである。こうなると、実際に何か失敗したところで、そこから何も学ばずに、逃げたりやり過ごしたりしてしまう。大人になった今でも、表立って何か行動することを極端に恐れてしまうのは、失敗が怖いからというより、失敗によって自分が「まがいもの」であることがバレてしまうのが怖いからなのだろう。
――だが、歌集を一冊出して、35年の自分の人生を少し距離を取って見返すことができるようになって、ふと思ったのである。
私の人生はほんとうに35年間ずっと「まがいもの」で「失敗作」だったのだろうか? それならこの歌集だって、「まがいもの」の手による「失敗作」になってしまうではないか?
そんなのは嫌だ! と思わず叫んだ(©やなせたかし)。
私は私なりに、自分の人生を納得しようとしてきた。「家族」を思わせる単語は原稿をまとめる段階ですべて削ったし、短歌で直接的に表現するつもりも無かったが(それならそうとこうして散文で書く)、それでも私は私自身を認めてやるために、言葉にならない喉のひりつきを何とかすくい上げようとした。その軌跡に失敗のへったくれもあってたまるか。自分の仕事を自分で見下してはいけない。
私は「濱松哲朗」という筆名の自分を通して、ずっと自分自身との対話を試みていたのだろう。あるいは、著者名として切り離せるくらいのアルターエゴでなければ太刀打ちできないくらいに自己が拗れていたのだろう。お前は「失敗作」でも「まがいもの」でもない、一人の人間なのだ、だからもう、自分の力で歯車を回したって良いんだ、それにこうして、一冊を書き記すことが出来たじゃないか、なのにまだ何が怖いんだい? ――もう一人の私がそう問いかけながら、段々と輪郭を私に滲ませてくる。
届かない、届かせたい、と思って手を伸ばしてきた。けれどそもそも、縋りつこうとしたものの方が虚像でしかなかったとしたらどうだろうか。
数年前から、自分の歌のモティーフに「土」がよく出てくるようになった。最初は「歌人って四元素説だと「火」と「風」が多い気がするから、私は「土」でいくか」くらいの気持ち(?)だったのだけれど、思っていた以上にしっくりくるものがあった。土は根を下ろす先であり、みずからの立ち位置を示すものでもある。歌集でも「土のみづから」という連作を最後に持ってきたのは、現在地を確認しながら次に繋げていきたい気持ちがあったからだ。
予想外に多くの人に引いていただいた歌のひとつも、そういえば「土」にまつわる歌だった。焼き物の街だったから、小学校でも何度か土をこねることがあったが、子どもは決まって手びねりで、ろくろで作るような整った美しさに到れないことがいつももどかしかった。私は私の不器用な手癖をずっと認められなくて、お手本通りかそれ以上の成果を出すことで自分自身による検問を突破しようとしていた。けれど、警戒するほどに手先は強張って、器はどんどん不格好になる。本来であればろくろで「もうすこしうつくしく」してやれたものを、と思う不格好な器の記憶は、私の自己認識そのものでもあった。
きっとこの歌集の420首も、ある時期までの私なら「もうすこしうつくしくなるはずだつた」ものとして捨てていただろう。それでも、一冊として形になると愛着が湧いてくるから不思議だ。それは恐らく、ろくろなら次の機会に試せば良いじゃない、今のこれだって「失敗作」でも「まがいもの」でもなく、私にとっては大切な経験のひとつなのだと、自分で自分の現状を認めて「次の機会」を与えられるようになったからだと思う。
私は私を認めたら負けだとずっと思っていた。けれど一方で、私は自分を認めてやりたくて、もう一人の自分の力を借りていた。自分のなかにピンと張られた糸の存在に気がつくだけで35年かかった。でも35年はけして、無ければ良かったものではなかったとも思う。この道以外では『翅ある人の音楽』は書けなかっただろうから。
◆
結局、自作の短歌や文章を年譜に挟み込みながら、互いが互いの答え合わせにはならないけれど無関係でもないような、そんな具合の年譜ができあがった。
私はまだまだ、心が弱い人間だと思う。けれど歌集を出したことでやっと、私自身の弱さをどう受けとめたら良いのか、自覚的に考えられるようになったように思う。この先をどう進んでいくかは、また私同士の相談で決めていくつもりだ。
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