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琴詩酒の友 〜能楽『松虫』と中国ドラマ『陳情令』


  友を偲ぶ酒

能楽に、『松虫』という演目があります。

学生の頃、これを習う際、
「これは(今でいうところの)BLの話だ(笑)」
と、先輩が教えてくれたことを思い出します。

つまり、男性同士の盟友の話です。

…阿倍野の市に、酒を飲みに来る男性が語ります。
かつて、死なば共にとさえ誓いあい、深い絆に結ばれたふたりの男性がおり、
阿倍野の原のあたりで、松虫の声があまりにみごとゆえに、男性のひとりが虫の音に誘われてふらりと原に入っていったが、そのままいつまでも戻ってこない。そのため、もうひとりが探しに行くと、なぜか虚しく亡くなってしまっていた。
泣く泣く友を弔ったあと、残された男性もあとを追い自害したが、友には会うことができない。
男は、逢えぬ友を偲び、亡魂となって、
長い年月、松虫のねになぞらえて、友を“待つ”。
そして、酒に酔いつつ、懐かしみ歌うのです。

〜ただ松(待つ)虫のひとりね(独寝 及び 独音)に 
 友を待ち えい(酔 及び 詠)をなして
 舞ひ奏で遊ばん〜

仕舞でも舞われる、クセの部分の詞章が、ことに美しく情緒的で、
学生の頃から、ふと気づくと口ずさんでいたものでした。

この能楽は、
『古今和歌集』・仮名序に
松虫の音に友を忍び」という一節があり、
また、よみ人知らずの秋の雑歌、
〜秋の野に 人松虫の 声すなり 我かと行きて いざとむらはん〜
の一首、
それらをもとに題材とした物語とされています。

また、『和漢朗詠集』所収の、『白氏文集』の漢詩に、

  琴詩酒伴皆抛我 (琴詩酒の伴 皆我を抛ち)
  雪月花時最憶君 (雪月花の時 最も君を憶ふ)

琴詩酒の友」という言葉があり、
共に風流を楽しみつつ酒をかわした琴瑟の友への思慕が歌われますが、それになぞらえて、
酒が、友を偲ぶ情趣に用いられています。

能楽『菊慈童』でも歌われるように、
酒は、永遠の追憶の夢へといざなう妙薬。
現実も、次元も超えて、懐かしい時に心を立ち返らせ、
そして、酔うほどにかつての夢のうちに入り、
けれども今というひとりの境地に、酒は涙となって、永遠の時をあふれ続ける…

おそらくは、先に死した男は、松虫のねにいざなわれて、穏やかに魂が昇華し、浄土へ旅立ったけれど、
残されて後を追った男は、悲嘆のあまり自害したために、救われぬ魂となって、友と同じ浄土にはいけず、現世を彷徨うことになってしまったのでしょう。

残された者の悔恨は、果てしなく…
友を思慕しつつ、永い時に、孤独をかこつ…

  『陳情令』に描かれる知己

能楽『松虫』の“友を待つ”に思いを馳せた時、
たまたま、最近になって心惹かれている、
中国ドラマ『陳情令』(原作『魔道祖師』)との共通した概念を、連想しました。

この作品では、窮地に追いこまれた主人公・魏无羨は、悪鬼悪業の悪名汚名を負いながら死に、十数年経ってから、意図せず呪術によって別の人の肉体に蘇るのですが、
一方で、まだ心を通わせきっていない中、主人公に目の前で無惨に死なれてしまい、以来、悔恨の念で過ごしただろうもうひとりの主人公・藍忘機の心情が描かれ、
義侠作品でありながら、知己の絆の切なさが、そこはかとなく、こめられています。

仙術として七弦琴を仙術として用いる藍忘機が、琴で死者と語る術を試みても、友の魂の応えはない。

しかしやがて時を経て、思いがけず別人に魂移しされて戻ってきた魏无羨が、難局でとっさに即席の横笛で吹いた曲が、
藍忘機が、魏无羨とふたりきりの時に即興で歌った、ふたり以外誰も知らない曲だったことから、別人の姿であっても彼であると悟り、
今度こそはの思いと共に、魏无羨に寄り添い、何もかも許容し、助け続けて、
最後には、魏无羨にかけられたすべての確執や事件の謎が解け、清々しく大団円となります。

ひとりは最悪の状態で死に、もうひとりは十数年も慚愧に堪えぬまま過ごしている。
『松虫』との違いは、友を偲び塊根の現実を藍忘機は生き続けたこと。

藍忘機は、もともと必要以上に人と接することを嫌う、口数少なく孤高な性格だったゆえに、
唯一無二の存在として、友として認識してからの信頼は、並ならず堅固に深く強いものでした。

(原作『魔道祖師』では、それら経緯や苦境が、BL的に成就する伏線になっていて、過酷ながらも笑える展開に結びつけていく、秀逸作になっています。)

純粋に解釈すると、原作ではBLですが、
心から信頼しあった相手が同性だという話で、
日本でも中国でも、古今共通、同性同士のこうした絆はよく描かれること。

そしてこちらでも、酒が情趣の重要なモチーフに描かれています。

『陳情令』で、私が好きなシーンですが、
魏无羨が、酒を飲みながら雪を眺め、
かつて自分を信じてくれた人はみな死に、それまで親しかった人たちからは憎まれるようになって、限りなく孤独だったことを回想し、
室内で琴を爪弾く、もうひとりの主人公・藍忘機を見返って、
「でも幸い… 人生で一人の知己を得れば満足だ」
藍忘機は、魏无羨が人々にもてはやされていた時には反目していたけれど、今はただひとりだけ、曇りなく疑いなく信じ続けてくれていて、
「この世にはお前を信じる者がいる。誰に誹謗されようと、心に恥じなければいい」
これが、お互いに口にするのではなく、心で会話し合っていて、

中国作品らしく、古来の漢詩の風流、
「酒」「琴」「友」、そして「雪」の風情が、みごとに盛り込まれています。 

こういう信頼関係、本当に憧れるし、胸が熱くなる。

私が『陳情令』に惹きつけられたきっかけは、
サントラの、古琴と笛子の曲想のコラボレーションの妙と、中国古典楽器の美しい音楽の情緒で、
それが作中で、藍忘機の七弦琴と、魏无羨の「陳情」の名の横笛により奏でられる、ふたりだけが知る絆をつなぐ曲として描かれている美しさでした。

謡と舞に惹きつけられる、能楽『松虫』と、
内容的にも、リンクして感じられますが、
死んだほうの境地と、残された者の境地は、次元が異なります。

死んだ魏无羨は、生きている間と生き返ったあとには、さまざまな鬱屈があっても、死に至る直前と死している間は、もうすべてを諦観して投げ出すような、無の境地にいたと思います。

けれど、残されたほうは、いつまでも、
失われたもの、取り戻せない慚愧、孤独、悔恨、消せない心の痛みに苛まれ続ける。
なぜもっと、孤独な友を信頼し、共に戦う覚悟を持てなかったのか…

永遠とも思える尽きせぬ時を、生きづらい現実と孤独の中、友を想い続けた果てに、
それがどんな形にもせよ、再会できたのなら、
何を抛っても、もう二度と何も後悔したくない、離れたくもないのは当然。

『陳情令』では、再び現世で会えたけれど、
『松虫』は、自ら後を追ってしまった男性は、いつかの次元で、会うことがあるのだろうか…

  “音”が、いざない、繋ぐ。

『陳情令』では、曲がふたりの時を戻し、
『松虫』では、虫の音を依代に、友との時を戻そうとする。

“酒”が、想いを紡ぐ。

アニメ『魔道祖師』で、最後に、

「一曲天地遠 山水總相逢」
(天地に曲ひびけば 山水もいつか出逢う)

という漢詩が唱和され、
これは伝統のある詩なのか、アニメオリジナルの作詩なのか、
作品を超えて、とても心に響いてきて、

私も、音や歌、琴や笛や、古楽古歌に携わる者として、
出会うべき同志に出逢うことを、常に願い、憧れ続けています。

  「今は濁世の人間。殊につたなき我らにて」
  「世はみな酔へり さらば我ひとり覚めもせで」 
         (能『松虫』クセより)

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