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雨こもりの物思い

「雨ごもり 物思ふ時に
  ほととぎす 我が住む里に 来鳴きとよもす」
                  (万葉集)

しばらくは毎週金曜に予定を空けておく都合があったのですが、
夏至の金曜の今日は、特にコンタクトがなかったので、
ではせっかく夏至だし、ひとりで心を解放しつつ、どこかへひっそり奏でに出かけようかと思っていたけれど…
雨になるとは思わなかった💦屋外で奏でられない。

それなら今日は、禊をして、部屋で瞑想するように奏でつつ、歌を読んで過ごそう。
雨の結界に閉じこもるような物思いの中、歌も舞い降りてきやすい。

和歌のように、季節柄、早朝にほととぎすの鳴き響める声も聴こえています。
ほととぎすは、常世の声を現世に繋ぎ伝える、異界の響き。

🍀🍀🍀
冒頭の和歌は、『万葉集』巻十五、
中臣朝臣宅守と狭野茅上娘子の、長大な悲恋歌群の中の一首。
ふたりの恋は引き裂かれ、宅守は越前に配流となります。
別れの際の娘子の歌、

「君が行く 道の長手を 
  繰り畳ね 焼き滅ぼさむ 天の火もがも」

(貴方がこれから辿る、長い長い道筋を、帯のように折り畳んで、焼き滅ぼしたい。そんな天の炎が落ちくればよいのに)
は、言い知れぬ嘆きを歌う絶唱。

狭野茅上娘子は宮廷に仕える女嬬のため、中臣宅守とは禁断の恋ゆえに配流となった…というような趣ですが、正式に夫婦になっていたとの記載もあり、配流となった理由は明記されませんが、
歌群の趣からは、悲恋物語が想定されています。
(万葉集にはそういう匂わせが多く見られます)

いつの時代も、想い合う恋人たちの間には、相思相愛で人から認められた仲であっても、物理的にも心理的にも、川とも山とも喩えられる、距離があります。
配流でなくとも、遠く隔てられるのであれば、距離的にも倫理的にも、ふたりの間には、長い長い、永遠にたどり着けぬほどの道が横たわっているように感じられる。

…もろともに焼き滅ぼされてもいい、ふたりの間に横たわるその道を、折り畳んで焼いてしまえたらいいのに…

奈良時代は、平安時代ほどには女性のふるまいに制限はなかったものの、男性には男性の、女性には女性の、観念的な約束ごとが厳然とされており、
特に逢瀬においては男性が妻問うもので、女性の側から出向く、特に男性の道行きを、許可なく女性が追いかけていった場合、その末には必ず、もろともの死が語られます。

見送るしかすべがないなら、いっそ私たちの間にある何もかもを焼き滅ぼせてしまえたらいいのに…力なき娘子の、血の涙の絶唱です。

人が裁かなくても、天地の神が咎める禁忌。
今の時代、誰も見ていなければ、バレなければ…と、刑罰を恐れる以外の罪の意識はないケースも多いようですが、
かつては、たとえ犯罪でなくても、決まりごとを破り共通認識で禁じられた悪いことをしている…という意識により、誰に知られなくとも、自分にとり、救いようのない天罰がくだるという畏怖の念にとらわれたものでした。
その感覚は、道義的にむしろ大切のように思いますが、

想い合いながらも遮られた恋は、
その時代ごとの道徳の中で語られ、悲劇が描かれることにより、非難されると共に憐憫をも含んだ、戒めとして語られることになります。

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