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横笛に学ぶ 容易そうなことほど難しい

 未知の笛 現在

目下、自己研鑽中の、外国の笛。

当初は「チベッタンフルート」として購入、
あとから、どうもネパールの笛らしいとわかり、

その後、形状やデザインの似ている笛の情報もいただいたものの、逆に謎が増えた感があります。

形状が似ていても、音階などを確認しなければ、写真だけでは、同じかはわからない。

友人情報で“イルン・ピパリ”という笛のことも知りましたが、
依然、正確なことは、名前も含め、不明のまま。

詳しいことは、まだまだ調査を要しますが、
どんなものであれ、私は、私の笛として、この先も愛していきたく思っています。

  容易く優しい曲ほど、実は奥深い

もともと音階も自力で知るほど、ゼロ状態だった笛なので、当然、師も教本も助言もなく、練習も全部が自分流です。
フルートや能管の経験をもとにしたものの、同じ横笛の形状でも、基本は同じながら、笛により特徴があるので、音を安定して出せるようになるまでが長い。

プロのかたで、いろんな横笛を巧みに吹きこなせるかたがいたり、
少なくとも篠笛や笛子の奏者は、曲や音階により複数の管を吹き分けていらっしゃいますが、
私は、それ自体がスゴイと思います。

私は篠笛が、好きなのに、吹けません。能管に慣れていると、軽すぎて感覚がつかみづらい。
今練習しているネパールの横笛は、篠笛より重く、能管より軽いため、入りやすくはありました。
(軽さ重さは、笛の重量ではなく、息吹の感覚です)

しかし、今の横笛に慣れるために集中している現時点、能管が吹きづらくなってしまいました。
かなり慣れてから、改めて他の笛を、並行して練習しなくてはいけないなと感じています。

例外は石笛で、笛の形状などとは別次元で、自分の氣の持ちようで変わりますが、
これはまた別の話として。

さて、初心者の常として、音階をとらえられるようになったら、
正確に音を感覚として指で覚えるため、
そして曲調を調整する息遣いを覚えるため、
吹けそうな既存の曲を選んで、笛から音を探り、笛譜を作って練習しました。

試みに作った際の笛譜

最初は、なるべくシンプルで、音の起伏が少なく、ゆっくりめの曲から。
『犬夜叉』の「時代を越える想い」とか、
『魔道祖師』の「忘羨(羨雲)」とか、
『ラピュタ』の「君をのせて」、
「涙そうそう」「もののけ姫」など、
13曲ほどを、譜に起こしました。

ちなみに譬えると、能楽で仕舞を習う際、観世流では『熊野』という曲の、クセ部分を最初に習います。
クセは、だいたい動きが多くなく、ゆっくりゆったり舞われる場面です。
基本の所作を学ぶのによいのですが、ゆっくりなのに、動きも所作が少なすぎるため、
初心者にとっては、慣れない上に、所作が余ってまごつき、黙ってジッとしている感覚を心地悪く感じて、早くもここで挫折してやめてしまう人もいます。
でも、稽古が進んで所作に慣れ、いくつかの演目を経験してみると、
物語展開や動きが活発な演目より、ゆったり静かで動きの少ない演目のほうが、はるかに位が高く、難しいとわかってきます。

同じように、笛の練習をしていて、最初は音のとりやすい低音から入り、ゆったりめの曲を吹いていると、
さすがに経験上、ある程度はわかっているため、
自分で自分の未熟さ加減、下手さが、情けないくらい痛感できてしまい、
家の外まで聞こえているだろう音が恥ずかしくて、メゲそうになってきます。

高いほうの音が、普通に吹けるようになると、余計に、低い音のムラが目立つのがわかる。

そして、ゆっくりめの曲だと、いってみれば誤魔化しようがない。

テンポの早い高音の多い曲は、テクニカルで難しそうだけれど、展開が早いから、意外に未熟さが目立たないものです。
けれど、ゆっくりで低調な曲だと、一音ごとのアラが見えてしまい、

だいたいゆっくりな曲は、情調的な曲のことが多いから、「ただ音を出してるだけ」なのが、丸わかりになってしまいます。
(『犬夜叉』の「時代を越える想い」は、まさにその典型でした。音をとるのは難しくないけれど、本当に聴けるくらい情をこめて吹けるようになるには、笛と完全に一体となれるまでかかると思う)

能楽の仕舞でも、稽古が進んで、男舞から修羅物という活劇風の舞になると、技巧も動きも増えて難しくなる反面、若い人には楽しくもなりますが、
これが上手な人は、今度はクセ舞が苦手になる傾向にあって、
その段階で改めて、ゆったり動作が少ない情調的な曲が、いかに奥深く難しいかに気づくことにもなります。

動作が少なく、暗喩が多いため、
ゆるやかな所作のみで伝えるべき心情表現が、ことに問われることになるのです。

笛も、言葉がなく、単音ゆえに、ストレートに表現力が問われます。
知られている曲であれば、そのイメージも先行するし、
ひとり演奏ではなおさらです。

実はそれゆえに、昔から笛が大好きだったけれど、これまで能管以外の笛に取り組む勇気が持てなかったのでした。

衝動的にネパールの横笛に背を押されるまでは。

未知なるこの笛を吹きたい。
私の笛として、自由に奏でたい。
その思いが、現在の未熟さ下手さへの恥を、押し上げています。

吹かないでほっておけば、時間が解決していつかはその時が来る…なんてものではありません。
日々、吹いて馴染んでいけばこそ、いつかのその時にたどり着けるのだから。

自分の歌声と同じように、即興で自由に調べをおろせるようになるまで。

  遊びの音

ところで、ひとり演奏の横笛では、正確になんていうのか忘れましたが、
“指の遊び”みたいな、楽譜には存在しない、装飾音を出すことがあります。

フルートは、タンギングで音を切り、メリハリをつけたりしますが、
東洋的な横笛は、息継ぎのタイミングまで、音を途切れさせずに吹きます。

でも曲によっては、指の移動で音が不自然に飛ぶ感じになったり、
同じ音を繰り返す場合に、指遊びで音を切るふうにしたり、
スムーズに一節を滑らかにするための効果のために、装飾音を入れます。

これが技巧的にも演奏的にも綺麗に聴こえて、吹いていても気持ちいいのだけれど、

能管を習っていた際、初心のうちは、遊びの音は入れてはならないと言われていました。
音を誤魔化すクセがつくからと。

かなり稽古が進んで二年後くらいに、師範から許可が出ましたが、その正確なやり方は教えてもらえませんでした。
やり方が決まっているわけではなく、師範の手を見て、自分で勘どころを掴むものらしく、
ここに初めて個性が出るものでもあるようです。

毎回、稽古のたびに、目を凝らして耳をそばだて、師範の指と音とを注視していましたが、
師範の指は魔法のようで、不思議な動きに感じられたものでした。

能管は伝統芸能のものであり、あまり個性を加えてはならないため、たぶん、あまりに装飾や遊びが多いと、注意喚起されるはずです。

が、自分流の強い、個人楽器の場合は、ある程度は自由に奏でられます。
ただし、遊びの装飾が過多になると、やかましい煩わしい曲想になる危険もあることは、
能管で学んだぶん、肝に銘じていたいと思います。

一見一聴すると、技巧的に見えても、実は音を誤魔化している、巧く聴こえるように加工しているという場合もある。 

けれど、本当に巧者の、適切なその遊びは、実に素晴らしい、心地よい音色として響いてきます。
憧れますが、こればかりは本人の感性次第での会得となるでしょう。

私の現段階では、練習で何曲か吹いていて、
遊び指の音を入れたほうが、音の移動がスムーズだったり、不自然感がない場合もあって、
まだ技巧ができる段階ではないものの、意図せず、自然に遊び指が入って、そのまま定型になったことが何度かありました。

こういう場合は、
「笛が、音がそうしたがっている」
と解釈することにして、それに任せることにしています。

  挑戦と制約

私の中では、自由奏の即興であっても、
琴でも、和歌でも、そして笛でも、
ご奉納という場においても、
新しいことに挑戦はしますが、

これまで伝統を学んできたことの真髄が、自分の中の制約となっています。

いくら自由でも、既成の束縛を受けなくても、
やってはならない、越えてはならない、破ってはならない境界が常にあり、
そこだけは律していくつもりでいます。

それは窮屈な縛りではなく、こうしたつとめをする上で、最低限のことだと思っています。

これまでは、たとえ「やって」と言われても、自分の中に抵抗がある限りのことは、やらない。
そのことを、特に深く考えずに、普通に実行していましたが、

近頃、初心にかえって、笛を学んでいることで、改めて自覚できたり、認識し直せてきたことも多く、

そのため、noteに書き残したいと思うことが増えてきました。

新しいことに取り組むことは、
これまでの無意識下での認識を、
新たに気づき自覚する機会としても、
意義のあることなんだと、日々実感しています。

今日も、琴・歌・笛と共に、自身を学びます。

6月に稽古をはじめて、7月末での成果が、既存の曲では、この程度。
まだまだです(^^ゞ


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