雑感

私の中には、直感的衝動的部分と、考えすぎて動けない部分とが内在している。
主に独創、独りで立ち上げる世界は直感衝動的、
仕事や学校や、人に関わる部分では考えすぎ徒労型が発動するようだ。

子どもの頃から、思索は好きだった。
当時、好きだった漫画や小説には、時空や宇宙や幻想に関わる心理的なものが多くて、「夢幻」という世界観をいろいろ自分の中で作り上げることが好きだったわけで、
これは、考えすぎ徒労とは次元が違う。
自由な独創は、ひたすらに楽しかった。

困ったのは、学校などで集団行動と集団思考が必要だった時で、私は普通にしていても、どこか周囲とズレるらしく、ペースも考え方も他の人たちと違うらしかった。
どう違うのか自分ではわからない。自分では同じにしているつもりだった。

私たちの世代の教育者は、自分達が軍事的な思考で教育された余韻が残っていたようで、
集団は全員均一的に統制されているべきとして、その輪から少しでもズレる異端者を、徹底的に叩き直そうとし、もしくは排除対象として扱った。
親も、優等的に普通でないことは歓迎したが、他と違う意味での普通でないは恥ずべきことと見なし、親の価値観で責めてきたから、こちらは畏縮するしかなかった。
独自性発想を発揮すべき場所のはずの、研究の世界に入ってからも、派閥的な思考ができないからと徹底的に嫌われ、やがて弾かれてそこにいられないようになった。この世界は容赦がない。存在否定は人格否定ともなり、ここから消えろという言葉は、この世から消えろと同義にすらなる。

自分は自分だ...
周囲が口にする「普通」や価値観は、必ずしも平等に定まった法ではない...
普通にしようと試みたところで、周りのすべてから肯定されるようには、なりようもない...

やっと、そう思えるようになったのは、なんと平均寿命の半ば以上を過ぎた年齢になってからだ。
それまで、周囲からの否定がつらく恐ろしく、自分は生まれてくるべきでも、今生きているべきでもない、でも生まれてきてしまった以上は自分で死ぬわけにもいかない、早く死なないだろうか...不慮で死なねばならなかった惜しまれる人たちに、命をあげられたらいいのに、とばかり考えていた。

今となれば、どんなに自分自身の意思を殺して、存在を消して、周りに合わせようとも、
何かが合わないとして結局はハズされていたのだから、自分を抑えること事態が無駄な徒労だったと思う。
抑えて嫌われたって、自由にして嫌われたって、結果が同じなら、迷惑になるほど傍若無人なことはできないタチなのだから、独りで好きにしていればよかった。
集団というくくりでさえなければ、私の個性を認めてくれる人たちだって、それなりにはいたのだから、自分を押さえ込まずに伸びのびと生きていればよかったのだ。
今となれば、そう思える。

誰かに何かを言われたり、泥を浴びせられたり、好き勝手評価されたり...カタツムリのように、威圧に縮こまるクセは今も消えないけれど、
いっそ、誰にも理解されなくても、自分の個性を尊重していればよかったのだ。

かつて恐れていた人たちとは、その場を離れればそのまま縁が切れて、二度と会うこともないし、時と共に顔も名前も思い出せないくらい消滅している。
あの人たちにとっても、私はもう跡形もなく消えているだろう。
それだけの縁だったと思えば、むしろ気楽だ。

職場であり、仕事だから、生きるために逃げられない、逃げることは死ぬことだ...と、すべてを諦めていたのは、ある種の呪縛だった。
集団に義理立てる必要はなかった。
逃げるのではなく、拓くために離れるのだと、今なら思える。

「嫌われる勇気」という言葉が本にもなっているけれど、
あえて嫌われることをしなくても嫌われてしまうなら、その場や人の価値観に振り回されず、開き直る勇気が持てたらよかった。
人格や存在を否定されているとまで、思う必要はない。合わないこちらが悪いのではない。
自分がこの世から消える必要も、逆に自分を嫌う存在の側が消える必要も、どこにもない。ただ同じ価値観や場にいなければいいだけのことだ。

集団に合わない、誰とも違う個性を、活かす方法が、何かしらある。
もう、周りの反応ばかりを気にして、自分を隠すようなことは、金輪際、したくない。

コロナ自粛でしばらく独りで過ごしながら、つくづくと、そう回想した。
今、まずは自分の真実を発露して、思う存分、望むところを現実化することだけを考えたいと、思うに至る。

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