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まとまらない今を生きて。


 ※「まとまらない言葉を生きる 荒井裕樹著」読書メモ

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年に一回。それくらいあれば、幸運。とにかくそれぐらいのペースで、「読むべきだ」なんていうアンテナが働いて、そいで、すごく救われる本というのがある。過去にどれほどそれだけの本に出会えたか、よく覚えていないけれど、何度その体験をしても、この感覚は不思議なものだなぁと思う。

久々に、ひどく体調の悪い朝だった。気圧の反動が大きかったこと、気温が急激に下がったこと。思いつくことはいくつかあって、とりあえず今日は無理をしないぞと決めた。あたたかい飲み物を淹れて、もぞもぞと毛布にくるまる。ゆっくり目を閉じて、うとうとして、気付いたら数時間が経っていた。幸いにも吐き気や怠さは落ち着いていて、ほっとする。
どう過ごそうかと考えながら、流れ作業のようにTwitterを開く。なんとなく、フォローしている人の画像欄なんかを眺めて(いつも時間の浪費になってしまうと思うけれど、なかなか辞められない)誰かの一枚の画像で手が止まった。何の意味もない、強いて言えば「読書中」程度の具合で載せられた画像の一枚、積み重なった本たちの中の一つのタイトル。

"まとまらない 言葉を生きる"

その言葉に手が止まって、目が止まって、ごくり、と唾を飲んだ。あぁ、久しぶりだ。久々に「読みたい」「読むべきだ」というセンサーが動いたような気がする。すぐにタイトルを調べて、それが今年の5月ごろに出たばかりの書籍であることがわかった。
とにもかくにもゆっくり過ごそうと決めていたはずの私は、いつの間にか「どこの書店なら、置いてあるだろう」と思考がシフトしていた。この手の本は町の実用書や雑誌メインの本屋には、置いていないだろう。比較的中心地にある大きめの本屋さんにあたりをつけた。あそこの近くには、丁度300円くらいで居座れるカフェが近くにあるし。あそこに行こう。決めてからは早かった。

エッセイがまとめられた本なので、随筆売り場にあるだろうと決め込んでいたけれど、調べると専門医学書の売り場に在庫一冊しかなくて、少しぎょっとした。筆者の荒井先生が障害者文化論を研究されている方なので、どうやら障害者支援のジャンルに並べられたに違いなかった。手に入れば良いので置き場には気にしないけど、うん、なんともこれは少しちがう気がする。まぁ、手に入ればいい。読み通り狙いの本屋で目当ての本を見つけられた私は、その一冊を握りしめてレジへと走った。

ーー「言葉が壊れてきた」と思う。

お気に入り(というほどでもないけど重宝している)カフェに入って、330円の紅茶をすすりながら、(街中なのにポット入りで、ノリタケの茶器でお茶を出してくれるところがいい)文頭を読んで、「あぁ、これは間違いなかったな」と思った。
それは多分、強い共感と実体験から来る感覚。
“若者言葉"とか"ら抜き"とかとはまた違う、もっと根本的なコミュニケーションとして存在する"言葉"のあやうさ。在り方。
本の言葉を借りて言えば、「壊されたものとは〇〇だ」とは言えないけれど、そう、例えていうならばこの言い表せないあいまいであやふやなわかりにくさ。その雑然とした何かから「感じる」「読み取る」ような言葉の価値が消えていくような危機感が、ここ最近の自分にはあった。

それは実体験として、言葉が書けない、という自分自身の悩みとしても存在した。

最近、めっぽう文章が書けなくなった。
もっと正確に言えば、書き方がよく分からなくなった。
伝えたいこと、表したいこと、どれがぷかぷかぼんわりと浮かんでくるのに、何ひとつ的確な言葉で言い表せられない。稚拙ながらも文を書くことを趣味にして、一種のアイデンティティなんかにもしていた私にとっては、それがひどく衝撃的なことだった。

原因の一つとして何となく感じていたのが「むやみにまとめようとする」「綺麗にしようとする」ことだった。
わかりやすく書かなければ、伝わるように、共感してもらえるように、そして誰かの役に立つように。特に実体験をエッセーとして書き留めようとするたびに、それらの壁にぶつかって、どうしても綺麗に言葉を束ねられなくって、辞めてしまった。
実のところ、自分の書き連ねていた言葉の先に、答えなどなく、まとめなどなく、そこにあるのはただ、今を生きる「葛藤」だけだということに気が付いていた。それだけだった。それだけだったから、そのまとまらない文章が、言葉が、どうしてもそこらにある有用な文だと思えなくて、書いては消し、書いては消した。なかったことにした。いつのまにか、書くことそのものを辞めた。

まとまらない文などいらない、という感覚、価値のない文はいらない、という感覚は、荒井先生のいう「言葉が壊れてきた」感覚に近い気がする。(と思う。)だから、読んで少し救われた。共感は一種の赦しだと思う。まとまらない、答えのない自分の随筆に、ひいては自分の人生そのものに、なにか言葉にしがたい"赦し"を得た気がした。

最近SNSを見ていると、"綺麗な"アカウントが目立つ。自分自身にキャッチーな言葉を、あるいは世界観を掲げ、なにか正しい生き方を発信し、支持を得る。なんだか嫌味のような言い方をしてしまったけれど、とても共感性の高いものだから、私自身そういうアカウントを見てしまうことが多い。
でも見るたびに、心のどこかで、言葉にはまとまらない、何か苦いものを感じる。それはまとまらなさを切り捨てた、生きづらさを何かに無理やり昇華させたような、「作りもの」を見ているような感覚。人間味のなさ。
そしてまとまらないナニカを抱えている自分への、否定的な感情。どこか感じる資本主義的価値観。裏に数字が見える何とも言い難い苦さ。

伝えにくい言葉のカケラたちは、世間一般の清く正しい生き方(敢えてここで具体的に言えば、健常な人間が真っ当に企業などで正しく働き、家庭を営むことを表すとする)から溢れてしまった生き方のカケラの形とよく似ている。
まとまらず正しくないものは要らない、と言い切る(ように見える)社会に、私はいま、堪らない苦しさを覚える。言葉に対しても、同様なのかもしれない。

"まとまらない言葉を生きる"は、そのこぼれ落ちた生き方ーーそもそもこぼれ落ちたと表現すべきなのか? 世間一般にいう正しい道とは"異なる道"と表現しておきたいーー異なる道の存在を教えてくれる、気づかせてくれる一冊だった。
いや、生き方に道など最初からないのかもしれない。広場で大の字で寝てたって人生だろう。

世間で求められる真っ当な人生、伝わりやすい言葉、世界はわかりやすく、まとまりやすい。理解できる。誰からも、認められるかもしれない。

でもそんな世界の中で、荒井先生が言うように、うまく言葉にまとまらない今を、せめて愛おしく思いたい。その存在を忘れないであげていたい。その優しさだとか、余裕を捨てずにいたい。それがきっと私を、私であらしめるから。


久々に書いた、書いたとも言えない随筆は、幾許か綻びもあるし、散文的ですらある。
とりあえず今は、その思考のカケラを記録しておくことにする。出会った一冊の本を読んで、それを許されたような、気がしたから。





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