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幽霊とは何か

先日、生まれて初めての明確な霊体験というものがあった。

これまで、寝込み時に声や慰霊碑の近くでの裸足の足音、曰くのある場所でのカメラの動作不良などはあったが、全て"きのせい"で済ませられる事柄であった。

私自身、霊的存在に対しては半信半疑。割合としては疑の方であるなりに怪談やオカルトなどを嗜む程度には好きであった。

科学的根拠、物理的調和が成されない事柄に対して、エンターテイメントと捉えながら否定的姿勢を内的にとってきた自分である。

しかし、今回体験したことは例に挙げた"きのせい"で済まされる事柄ではなくて、実際にこの目と耳で認識した事象なのだ。

深夜、友人とのランニングで少し遠くまで行った帰りのことだ。地方縦断の大きな国道を歩き、帰ろうとしていた。自殺で有名なマンションを通りかかったときおもむろに線香の匂いが2人の鼻先を掠めたので、それを機に怪談に話の流れが変わった。そうしてあんな事があった、こんな話を聞いたなどと歩いていると、山を切り拓いてカーブが現れた。勿論何度も通った道で何も考えず話に集中して歩き続けた。カーブの前の登り坂に差し掛かったとき、四車線の対岸に、山へ続く坂が見え、その方向へ目をやった。特別その坂が特徴的であったとかそういう事ではない。

何かがそこにいるのだ。

最初は踊っている人がそこにいるのだと思った。街灯の下およそ160-170センチ程の黒いものが激しく折れ曲がったり揺らめいたりしている。深夜2時という時間だ。しかも砂利の斜面。周りに人気も無いし、足場が相当に悪い。人間、暗い場所で黒いものを視認するときに表面の光沢を頼りに物を見る。謂く、対象への光の反射で水晶体に像が捉えられるのだ。しかし、光沢が一切無く、認識できない筈なのにも関わらずはっきりとその形を見て取れるのだ。まるで深い穴のようにどこまでもぽっかりと真っ黒で人の背丈ほどの乱舞する何か。それは砂利を踏みならしあらゆる方向に折れ曲りながら坂を降りてくる。しかし、腕や足、頭のようなものは判らない。時折しっかりと真ん中で折れ曲がったりと関節の動きを見て取れないからだ。聞こえてくるのは砂利の音。勿論県内でも1番大きい国道だ。この時間とはいえ車の往来もある。その間も、何台か車は通っていた。しかし車道を挟んで対岸の砂利の音がはっきりと聞こえるのだ。まるで砂利の音だけが自分たちの近くで鳴っているかのように。それだけはっきり聞こえるならば、あれだけの運動量、息遣いも聞こえてもおかしく無いと思える。だが、聞こえない。それに心なしかその周囲だけやたら虫が鳴いていた。

友人と2人でそれはどういった風に見えるか意見を交換し、一致することで少しの安心を得ようとするが、感じている事象が次々と完璧に一致していくたびに得体の知れない緊張が、ただじりじりと広がるばかりであった。

得体の知れない物を認める要因や根拠は充分であったかと思えた。その先のカーブの上には橋が架かっており、火葬場と周囲に広がる霊園とを繋ぐ橋であり、そこが曰くがあるとされる山であったからだ。

坂を降りてくる黒いものは木の下へと入り次第に見えなくなった。
私達は周囲の物音や後ろを頻繁に気にしながら帰路につく。しばらく歩き、コンビニで一息ついて目にしたものを語りながら状況を整理していた。

あれは何だったのか、どう見えたか、あれは何をしていたのか、もしかしたら異常者と言われる類のものなのか。議論を重ねたが答えは出なかった。それもこれまでの道程、目に見えたもの聴いたものが少しづつではあるが変わってきていたからだ。もっと詳細に言うと、鮮明になってきたのだ。人間の脳の記憶野の作用なのだろうか。短期記憶が長期記憶へと変化する補完やらの機能なのかと考えを巡らせたが、根本的な問題として、それをはっきりと体感したのにも関わらず、理解をできていないのだ。先ず異常者だとしても、地方とはいえ、大きな自治体であり、地方都市のすぐ横だ。言い方が悪いかもしれないが、この時間に"野良"で見る事が稀有なのだ。それに加え、前述の通り我々人間の感覚器官が捉える法則から逸脱した黒い物の見え方だ。いくら薄識とはいえ物理的に有り得ないことは確実にわかる。

それから一服を終え、それぞれの家へ帰っていった。

1人になり、以前大学生の頃に人間の恐怖という感情及び文化的概念について研究していた折、真理ともいえる持論を持っていたことを思い出した。

それは、幽霊という存在を論理的に説明できる仮説であった。それはこういったものである。
「霊というものは共通意識下で発生する回避地である」という仮説だ。
この仮説において今回共通意識とされるものは以下である。

人間は言葉や行動によって意思を疎通する。言葉や行動には意味が含まれており、それは単一の意味ではない。例えば「○○はおいしい」という発言にはそのまま"○○はおいしい"という意味があり、また"○○は食べられるものである"という意味もある。このように表に出ない意味の中には表に出る意味に対しての条件付けがなされている。複数の発声によるやりとり、つまり会話の中で1つのテーマに対する条件が積み重ねられていく。その中になにかを肯定する条件を両者が認識することによって、共通認識となる。

また環境要因も共通認識である。ある公園に遊具があれば、"子供達が遊ぶ場所"という条件づけがなされ、信号があれば"交差点、または車が往来する場所である"という条件がつけられる。環境は条件付けの性質を持っており、その条件は発声と同じく単一ではない。
この環境要因も作るのは人間であり、作った人間と我々との共通認識である。

これらの共通認識に条件付けされたものは我々にとって存在すると言える。
そして、条件付け自体は我々の無意識下で処理されていることは誰もが理解できるであろう。

これまでで条件づけられたその全ての条件に幽霊を肯定する要素が含まれてしまっているとしたら、回避地として幽霊は存在しなければいけないというのがこの仮説だ。

話を戻すと、深夜、火葬場、霊園、山、怪談、会話により発生するクオリア。それらに条件づけられた回避地が幽霊である。

これまでは存在を否定してきた霊的存在は"きのせい"ではなく存在しているのだと断言できる。なぜならば上記の仮説が覆るからなのだ。

なぜ持論が破綻することによって、霊的存在が肯定できるのかというと、上記に挙げた仮説は条件付けによって生まれた回避地が幽霊であるということは、幽霊の存在を否定している仮説に他ならないのだ。

幽霊は条件付けによって勘違いされ(きのせいによって)生み出された架空の存在というのがこの仮説の真であり、その仮説は私自身が視覚という物理作用によって霊的存在を捉え、その霊的存在が物理作用の理を超越していた点(街灯の反射ではない捉え方をした)を観測したことによって存在が肯定されるのだ。


【後述】

これはモリヌークス問題の抜粋である。

生まれつきの盲人が成長するなかで、同じ金属でほぼ同じ大きさの立方体と球体を触覚で区別することを学び、触ったときどちらが立方体または球体であるかを言えるようになったとする。そして今、この盲人が見えるようになったとする。

問い:盲人が見えるようになった今、テーブルに置かれた立方体と球を、それに触る前に視覚で区別し、どちらが球体でどちらが立方体なのかを言えるか?

(1693年3月2日,ジョンロックに宛てたモリノー(モリヌークス)の手紙)

見たものしか信じられない誰もが生まれつきの盲人なのかもしれない。

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