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5年6か月と25日振りに、旧ツイッターアカウントを復活させてみた。

noteとX(旧ツイッター)は連携させた方がいい。

…という定説のようなものが、note界ではしばしば囁かれている。


なぜ?と問われれば、理由は簡単。
この2つのアカウントを連携させておくと、誰かが自身のX(旧ツイッター)で、自分の記事をポストしてくれたとき、自動的に自分のX(旧ツイッター)のアカウントがタグ付けされる仕組みになっているのだ。

つまり、記事を書いた本人、SNS的な言い回しをすれば"中の人"と繋がりやすくなるという利点が、主な理由である。

そこまでして人と繋がりたいもんかね?
…なんて意見もあるかもしれないが、そもそもSNSとはそういうものである。

やれインプレ稼ぎだ、やれSNSマーケだと、本来のSNSが持つシンプルな魅力、"ただ人と繋がる" という楽しさが希薄になりつつある今、わたしは5年6か月と25日振りに、旧ツイッターアカウントを復活させてみたくなった。


***


事の発端は、これだ。
(過去ネタ引きずりがち)


ねこもくいぬかさんの、この記事。いや、ポストである。

これは先日公開した「noteのコメントで、今日のランチを決めてみた。」に対する素敵なアンサー投稿であるのだが、あろうことか中の人の感情は、X(旧ツイッター)のポストへと誘導されていた。(なんだか悪いことのような書き方にみえますが、そんなことありません。めちゃくちゃ嬉しかったです。)


久しぶりに見た X(旧ツイッター)のタイムラインは、某イーロンマスクの独自センスによって漆黒の影が落としに落とされまくってはいるものの、そこに生き残る生身の人間は何も変わっておらず、やはりMeta社が手掛けた新進気鋭のスレッズにはない、実家のような安心感がある。

わたしの脳は完全に「あいつ今何してる?」状態。
ネットは恐ろしくもすごいことに、当時のまま何も変わらず綺麗に残っている。顔も名前も知らない誰かとやり取りしていた記録も、今見ればなんとも気恥ずかしく思える自分のつぶやきも。全部だ。

思い出は思い出として、そっとそのまま閉じてしまっても良かったが…
約1年前から、定期的にnoteを更新するようになって、同じ文字媒体のSNSとして不動の地位に君臨する X(旧ツイッター)の存在価値は、やはり大きい。

‥‥なんて、大層なことを言うつもりはないが、単純に昔の記録が残っていることが嬉しかった。
"Dオタ(ディズニーオタクの略)"として、旧ツイッターでアホな交流を図っていたあの時が懐かしくなった。

本当にそれだけの理由に過ぎないが、今ここで X(旧ツイッター)を復活させてみた手前、こっそりnoteとも連携しておきたいと思う。

この5年と半年で、わたしの環境も大きく変わった。確認するに最後のツイートは、大学入学から半年ほどが過ぎたクリスマスの晩のようである。

あのとき思い描いた未来の姿に、今なれているのかどうかは怪しいが、ひとつ言うとすれば、その人の根本は過去も未来も大して変わらないんだろうな、ということ。垢抜けない過去のつぶやきに目を背けたくもなるが、それ以上に自分の核ともいうべき、"好きなもの"、"素敵だと思うもの"の価値が変わっていないことに嬉しみを覚えた。

言い換えれば、微塵の成長も感じられない過去のつぶやき、ではあるわけで、それを自ら晒すことになんの意味があるのかさっぱりだが、たまにはこんな自己満程度の報告でもいいではないか。

昔ほどの頻度でつぶやくことはないし、これを読んでくれている皆さんと Xで繋がりましょう!なんていうこともサラサラないのだが、何かの機会、何かのご縁でポストしたり、されたりしていただけるときには、以後どうぞお見知りおきのほど。

そしてこのnoteと、旧ツイッターを通じて、これから出逢うかもしれない未来の誰かへ。
なんてことはない呟きで、共に楽しみましょう。

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