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風邪を引くたび、「咳をしても一人」に感嘆する。

「咳をしても一人」
この短文に滲み出る哀愁と切なさと、それでいてどこか自分を客観視したような卓越さ、これ以上ない悲しみの歌であるはずなのに、つい口にしたくなる心地良い語感が妙なコミカルさをも醸し出す、私はこの歌が大好きである。

五七五の十七音や季語に捉われない自由律俳句。明治から大正にかけて活躍した俳人、尾崎放哉の有名な歌。

この歌と出会ったのは、小学生時代の夏休み。うだる暑さの中、自由俳句という宿題にこれっぽっちのやる気も出ず、アイス片手にだらだらと国語の資料集を流し見していたときだった。雑学程度に小さく掲載されていた俳句だったが、ぶわーという扇風機の音も一瞬遠くに聞こえるほど、私はふと心惹かれた。

〇〇しても一人、という体言止めの効果(当時はそんなことを考えてもいなかったが)にじんわりとした面白みを覚え、友達が家に遊びに来てもずっとソロプレイのゲームをしていたりすると、「二人なのに一人」などと呟いて、なんでもない~と言いながらにまにまと笑いを堪えたりするほどだった。(変な子供。)

この歌には私の脳を刺激する何かがある。尾崎放哉の人となりも人生観も、どんな生涯を送ったのかもよく知らないが、こんな歌を詠めるなんて、世の中を、自分自身を、一体どんな風に見つめ、どんな色に見えていたのだろう。と、考えても仕方がないことにぐるぐると頭を巡らせたりしながら1日が過ぎると、この上ない幸せを感じられるのである。

そんな私は、ただいま絶賛夏風邪こじらせキャンペーン中である。1週間の鼻水ウィークを終えたと思えば、ケホケホと乾いた咳が止まらない。梅雨前線もそっちのけに、続く猛暑とクーラーの気温差にやられたか、はたまた日々の仕事のストレスか。どちらにせよ良いことは、無い。

パキン、パキンと錠剤の風邪薬を手のひらに乗せ、くいっと飲み込むたび、私が一体何をしたっていうのさ、と思う。ベッドに転がり、SNSを開けばいつだって友人たちとのチャットが続く。現代において、よっぽどのことがない限り、「一人」を感じることは難しい。手の中には無限に人と繋がるネットワークが形成され、窓の外でもひっきりなしに車が行き交う。だが、ケホッと咳がこぼれた瞬間は、どこか世の中から見えない壁で隔離されたかのような、小さな孤独感を味わうことができる。「あ"あ"ー」というイガイガの溜息は、絡む痰の不快さと、時を超えてもなお色褪せない歌への感嘆なのである。


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