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優しくなるための金柑

初めて金柑をまるごと食べた。
こんなに美味しいのか。
プチっと皮がはじけて甘酸っぱい。
実家の方からお母さんが送ってくれた野菜の中に1袋入っていた金柑。
ひとまず生でまるごと放り込んでみたのだ。
正解。

今度はてんさい糖とはちみつで甘露煮にしてみた。
できたてアツアツの金柑の甘露煮は、皮がフニャッとしてしまい少し残念だった。
けれど、冷蔵庫で冷やしておくと、なんとプチっとした皮の食感が元通り。
よかった・・・
コップにシロップと金柑を2粒入れて、お湯を注げばホット金柑のできあがり。お風呂に持って入って飲みたくなる。
これもまた正解。

今度は金柑のパイを作りたいな。
きっと大正解。
うまくできたら職場の人にお裾分けしよう。

金柑とお母さん、
冬の始まりを味わわせてくれてありがとう。


「人は優しくなるために生きている」
大好きなロックスターの言葉。
優しくなるってどんなことだろう。

たとえば、同じ話に何度でもあたたかく耳を傾けることだろうか。
(かくいう私は反抗期の時分、母に何度も同じ話をされるのが嫌で仕方なく、話を切っては悲しい顔をさせていた)
愛や、時にはおせっかいも受け取ること。
壮大な夢や正しさを否定しないことや、失敗を見守る忍耐。
失敗を一緒に笑い飛ばすこと。
怒りや悲しみで震える肩をこの両腕で抱きしめること。
あるいは、自分にとっての宝物をお裾分けすることかもしれないし、
丁寧に日々を扱うということかもしれない。

ただ、優しくなるということは
”人に合わせる”ことによる自己犠牲の上に成り立つものではない。
自分にも相手にも優しく居るために
時にはハッキリと断ることや、
あえて言わないでおくことも必要かもしれない。
自分の気持ちにも相手の気持ちにも正直であるということ。
そして、与えられる人であるということ。
与えるということは自己犠牲という概念に結びつきやすいけれど、
与えるためにはまず自分が満たされていることは大前提である。

名著『レ・ミゼラブル』の作中では
逃亡中の主人公ジャンバルジャンは、自分をかくまってくれたミリエル司教の自宅に大事そうに置かれている銀食器を盗んで再び逃げてしまう。
しかし、ジャンバルジャンはあまりにみすぼらしい身なりであったので、翌朝すぐに警察に捕まって司教の元に連行される。
そこでミリエル司教は盗まれた銀食器のことを「私がこの方に差し上げたのです。だけど、どうしてこちらをお忘れになられたのですか。」と、より高級そうな燭台を1組差し出すのです。
ヴィクトル・ユゴー(1862),レ・ミゼラブル

私には、ミリエル司教にとって銀食器を差し出すことは自己犠牲のようには思えない。愛で満たされているからこそできる所業である。
自分にも相手にも赦しを与えるということは、愛なくしてできることではない。


人生には心の底に流れる愛を、ゆっくりとすくう技術が必要だ。
焦らなくたっていい。
その技術を習得するために一生を使うのだから、完璧な人なんていない。

私が満たされるということ
それは今日お風呂でホット金柑を飲むということ。
修行の身ですからね。


今日も素敵な夢をいっぱいありがとう。
いいえ、どういたしまして。


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