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泣いて元気になる

私は結構泣き虫だ。
でも泣き虫にも波があって、15秒のCMで涙してしまうような時期もあれば、感動系の映画で涙目になる程度で済むこともある。

小さい頃から泣き顔を他人に晒すことには抵抗があった。
弱さを見せることに対する危機意識が働いていたのかもしれない。
けれどそれは、理由を問いただされたり、私の涙を他人に勝手に解釈されるのが嫌だったのだと思う。

「こんなことで泣くなんて」=情けない、みっともない、
「なんで泣くの」=私が泣かせたから私が悪いのね
といった具合に。

大体、なぜ涙が溢れてしまったのかなんて分からない。涙の大波に飲まれてる時は文字通りただ息をするのに必死で、その正当な理由を見つけ提示する余裕なんてないのだ。
今の私でも難しいのだから、子どもの時にそれができるはずもない。
だから涙の波が押し寄せるのを感じたら、トイレや自分の部屋にこもった。ちょっとトイレに、と見せかけて、トイレットペーパーで涙を拭き、(当時の私の頭では)何食わぬ顔でリビングに戻った。
涙の跡が残るなんて気づいてなかった頃のことで、「泣いてたんでしょ」と母に言われた時は衝撃だった。泣くということは、人の迷惑になったり、親から責められるようなことだと思ったからだ。
「なんで泣いてるの」という問いでさえ、感情の濁流で息継ぎを必死にしているところの自分には、暴力的に聞こえてしまったりする。

親元を離れて、友人の誰に言わせても不運だと言えるような犯罪被害に遭って、心のダムが決壊していくのを止められなかった頃、友人と通話を繋ぎながら泣いた。泣きじゃくった。
理由を問いただすでもなく、ただ通話を繋いで、私が涙の間に紡ぐ言葉に相槌を打ってくれた友人のおかげで、自分が本当はずっと昔から、涙の海で溺れそうな私の浮き輪や命綱になってくれるような存在を求めていたのだと気づいた。
涙に大義名分を求められず、誤って捉えられる心配もない、ただ大波が去るまで横にいて、安心感をもたらしてくれる存在。

大波に飲まれてる時は苦しく、思考もうまく回らない。一人だと一人で泣いているというそのことだけでもトリガーになりネガティブな雲をどんどん大きくしてしまう。ただ、気が許せる存在がいてくれるだけで、ブレーキがかけられたりする。

ただそばに居てくれることが「泣く」という否定されがちな行為を肯定してくれる。
「君の涙は見たくない」というのも、思いやる気持ちからくる尊い言葉だと思う。
けれど「君が泣くのを見ることは、私にとっていい気分ではない(気分を害するからやめてくれ、泣くな)」というのは、私の泣きたい状態よりも自分が泣くのを見て嫌な気持ちになりたくないと自分の感情を優先することになる。
だから、泣きたい私を泣きたいだけ泣かせてくれつつ、沈んで溺れない程度に繋ぎ止めていてくれる存在は理想的で、ありがたく、得難いものである。

それらは成功経験となって、私が泣くことを受け入れるのを助けてくれる。
「泣く自分」を自分自身が責めたり、批判したり、罪悪感を持つことから遠ざけてくれる。

泣く時は感情がキャパオーバーを起こしていたりしていて、理由もわからないのに泣いてしまうのは泣くことを身体が生理的に必要しているからじゃないかと思う。
そうして沈みすぎずに泣いて泣ききってしまえば、からりと心が軽くなることがある。
涙を途中で飲み込んでしまうと翌日に持ち越してしまうことがあるから、最近の私は、泣きたくなったら泣き切ることを大事にするようにしている。

雨降って地固まる。雨上がりに必ず虹がかかるとは限らないけれど、洗車をするように、心のススを洗い出す良いものとして涙を再定義したい。
泣くことは悪いことじゃない。
泣いてえらいと言えるくらいでもいいと思う。
自分の感情を、心と体を大事にすることだと思うから。

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