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抑圧と解放、境界(フレーム)を越える少女のまなざしー山戸結希短編作品論ー

「私たちは」「変わり者で、」「諦めが悪くて、」「忘れられない女の子でいようと思います。」

『映画の女の子、の依拠する三角関係に差し当たって』

はじめに

 アンドレ・バザンは『映画的言語の進化』の中で映画作家を、表象それ自体を表現の目的とする「映像を信じる監督」と現実の真理/本質(とされるもの)の忠実な再現を表象に従属させる「現実を信じる監督」の2類型に区分した。それに則るなら山戸結希という作家は間違いなく前者だと、筆者は考える。山戸結希とは、何を撮ろうとしている監督なのか。何を語ろうとしている人間なのか。本稿では、以下3つの短編作品から彼女の作家性や根底にある主題に迫りたい。

おとぎ話『COSMOS』ー歪なまでに深いレヴェランスー

おとぎ話『COSMOS』は2014年に作られたMVである。バンドメンバーが一切映ることのない他、単体の物語を持っている映像作品としての側面が強い。
本作最大の特徴は何といっても全編ワンカットで撮影されていることだろう。冒頭1分43秒は固定カメラが女性の顔をクローズアップ(大写し)で捉え続ける。彼女は悲しそうに目を伏せ、時折涙を拭うが彼女がなぜ悲しんでいるのか、視聴者にはわからない。被写界深度が浅いため、彼女がどこにいるのかもはっきりしない。1:44から彼女が移動を始め、カメラもミディアム・クローズ・ショット(人物の胸から上を映すショット)の距離を保ちながら彼女を追う。ここで彼女が新宿の街にいたことがわかる。歩き方はどこか不安定で生気を感じられない。上手側(正)から下手側に(負)に止まることなく歩んでいく。また、ここでの撮影は彼女と同じ方向に進む人を極力映さず、彼女と反対方向に歩いていく人をフレームに多く入れている。世界が彼女を押さえつけているような印象を受ける。
2:30でカメラが彼女の側面から正面に回り込み、彼女はカメラに背を向ける形で後ろを振り返る。ここで初めて新宿の街並みが一気に広くカメラに収まる。2:35、ここでバンド名がテロップで出るとともに彼女がそれまで歩いてきた道を軽やかに踊りながら引き返していく。負から正へ、流れるように。カメラは彼女をロングショットで捉えながら追いかける。ここまでの一連の場面は、ドラムやギターによって音数を増す音楽とも相まって強いカタルシスがある。彼女はいつの間にか笑顔になっている。3:33からは彼女を中心としたサークルショットか続く。どんどんその外周が大きくなり加速していくので、見ているこっちもさながらトリップしているかのような不思議な感覚に陥る。彼女は踊り、回りながら、ヘアゴムを解き、ゆっくりと踊りを終えたのちに、新宿の街並みを背に深々とレヴェランスをする。レヴェランスとは、バレエでレッスン前後や舞台で踊り終わった後などにするお辞儀なのだが、ここでのレヴェランスは頭が膝より下まで行くほどの深々としたものである。バレエの様式としては一般的でない"歪"なものだ。しかし私たちは路地裏で立ち尽くしていた彼女が重苦しい「現実」から解き放たれて、軽やかに飛翔し、この世界で生きる喜びを全身で表した舞いを見ている。だから新宿の風景の中で思いっきり「浮いている」彼女の姿に、違和感よりも清々しさを感じるのだ。

『玉城ティナは夢想する』ー不自由と自由の狭間でー

「誰も知らない、誰も私のことを知る由もない、きっと私のまなざしは、この世界の誰にも気づかれない」
そんな独白から始まる本作は、「生まれ変わったら玉城ティナになりたい」と切望する地味で平凡な少女"A子"と、今をときめくモデル"玉城ティナ"を玉城ティナが一人二役で演じるというメタ的かつ自己批判的な構造になっている(書いていてゲシュタルト崩壊しそうだ)。本作は玉城ティナという人間の、極めてパーソナルな独白として捉えることができる一方で、"ティナ”を「理想の自分」の表象として考えれば「理想の自分と現実の自分のギャップに苦しむティーン」という普遍的な題材を描いていると解釈することも可能だ。
中盤、A子は密かに恋焦がれる先生に会いにいくのだが言葉をかけることなく立ち去ってしまう。そしてそこからはティナと、先生の会話のシークエンスが始まる。本作における約1/4を占める重要な場面だ。この会話ではティナの言葉はティナ自身から発されているが、一方先生の言葉はA子のモノローグだ。「君は特別だよ。君みたいに特別な女の子と、彼女(A子)は訳が違うんだ。」先生の台詞は、A子の意思を反映したものだろう。そして先生は言うのだ。「でも、A子ちゃんには、君にはない魅力があるよ。」ここで初めて物語世界で提示されてきた価値の逆転が起きる。ティナは有名であるが故に、どこに行っても彼女は彼女以外の何者にはなれない。しかしA子は何者でもないが故に、これから何者にだってなれるという可能性の余地が残されているのだという。
さらに本作は度々イメージ(静止画)が映像と映像の間に挿入されるのだが、この場面ではA子のイメージを囲むフレームを上下に拡張する、反対にティナのイメージを囲むフレームを上下、次いで左右と狭めていく…という演出を用いることで「不自由なA子と自由なティナ」という従来の図式が逆転したことを視覚的に表現している。
終盤、ビアノのBGMが段々と大きくなる。顔のクローズアップを中心に構成されていた画面に、ミディアム・クロース・ショット、そしてロングショット(人物の全身を映すショット)が入りこむようになる。挿入されるティナのイメージは、笑顔だったり涙ぐんでいたり、さまざまだ。1秒にも満たない速さで次々とイメージが入れ替わっていく。その様は刹那的であり、観客が抱く一般的な映画のイメージに沿わない自由なものだ。
エンドロールでは、暗闇の中でランニングしているA子が映し出される。流れている曲は一見、物語世界の外にある音のように思えるが、A子はイヤホンをしており、もしかしたら私たちが今聴いているこの曲を聴きながら走っているのかもしれない。なんてことを思わせる。画面の奥からこちら(フレームの外)側を真っ直ぐに見据える彼女は、どこか吹っ切れたような、満面の笑みを浮かべている。そう、まるで「わたしがわたしとして生きている限り、わたしは自由だ」と見る者に伝えているかのように。

『映画の女の子、の依拠する三角関係に差し当たって』ー銀幕より愛を込めてー

"三角関係"とは一体何を指しているのか。
ひとつたしかなことがあるとするならば、⓵本作には堀未央奈が演じる白子(観客の象徴)、三子(役者の象徴)、黒子(監督の象徴)の3人の女の子が登場し、⓶「白子と三子」「三子と黒子」「黒子と白子」という三つの対話パート+最終幕「白子と三子と黒子」で構成されている、ということだ。物語の構成上でも、最終幕の文字列の上でも、白子と黒子が直接、接点を持つことはない。その間には三子の存在がある。観客は映画を見ても、直接監督の姿を捉えることはできない。スクリーンに映し出される作品、及びそこに生きる役者(三子)の存在を介すことで、初めて観客と監督は繋がることができる。第一幕「白子と三子」では、白子から三子への語りかけと、三子から白子への語りかけをカットバックの連続で描く。編集の介入なしに、2人が同一の画角に収まることはない。それは2人を同一の人間が演じているからということもあるが、それ以上に白子(現実の住民)と三子(虚構の住民)の間はスクリーンという境界によって断たれているからだと思う。
第二幕「三子と黒子」を経由して第三幕では「黒子と白子」監督と観客の対話が実現する。現実では絶対に交わることのできない両者。白子「私は、想像がつかないの…あなたのしてること」と言う。しかし黒子は自分も監督になるなんて想像がつかなかったと、白子に語りかける。
「あなたが見ていてくれて、本当に嬉しい」「私の方がずっと嬉しいよ」
別世界の住人だと思われていた2人は作品を媒介することでしか繋がり合えないとばかり考えられいたが、もしかしたらその境界="スクリーンのこちら側と向こう側" は、気持ちひとつで越えることができるのかもしれない。そんな可能性がこのパートでは示唆される。
最終幕「白子と三子と黒子」スクリーンの向こうの三子と目があった白子は、たまらず映画館の座席から立ち上がり、走り出す。スプリットスクリーンで一つの画面に白子・三子・黒子の3人全員が、初めて同時に映る。彼女らは息を切らして走っている。ここで出てくるのが本稿の冒頭に引用した台詞だ。
スプリットスクリーンが終わり、カメラは走る白子の背中をロングショットで捉える。『COSMOS』と同じく、ここまでずっとミディアム・クロース・ショットか顔のクロース・アップで構成されていた画面に余裕が生まれ、世界が広く映し出される。解放のカタルシス、再び。

「私には、」(白子)「「「映画が必要です」」」(全員)

走るのを止めて振り返る白子の顔のクロースアップから、ゆっくりとカメラがパンする。すると、別の場所にいる黒子が映し出され、彼女が「カット!」とカチンコを叩いて、エンドロールに入る。白子から黒子への移動。ここでの黒子は、これまでの姿と違い、三子のように絵の具で汚れていて、白くラッピングされた花束を持っている。まるで3人が、1人の女の子として新しく生まれ変わったかのように。私たちを真っ直ぐ見つめる黒子の視線で映画は終わる。
彼女に私たちの姿は見えているのだろうか。わからない。しかし、私たちは、今この瞬間、彼女を見ている。これは断絶なのだろうか。観客が飛び込もうとすれば、その魂は、映画の世界へと入っていくことができる。そして映画に魅入られた人間の中には、自ら映画を作り出す人間へと変身する者だっている。私たちが映画を必要としているように、映画もいつだって私たちを必要としているはずだ。
映画業界における女性の立場は非常に苦しい。ハラスメントや性加害の存在。旧体制に縛られた業界で、優秀な才能を持つ女性が活躍できる場を与えられないという現実※1がある。

映画業界に限らず、社会全体においても女性が不当な扱い・加害を受けるという問題はある。山戸結希が、一貫して女性を主人公とした作品を作り続けるのは「一人の女の子として、この世界に生きるすべての女の子に寄り添いたい。彼女たちが、自分自身が持つ輝きを信じられるように、そっと背中を押したい」という祈りが込められているからだと筆者は考える。

「日本中の女の子たちと男の子たちが、自分も歌いたいと思ってほしいですし、自分も撮りたいって思ってほしくて。」
「たくさんの、子どもたち、若者、未来を志してる人に、こっちの世界への呼び声みたいに、『自分も作りたい』って思う導火線に、火がついてほしいなって思いますね。」


SPACE SHOWER TV『映像作家の世界・山戸結希スペシャルインタビュー』※2

おわりに

山戸結希は女の子を世界、そして自分の内にある抑圧から解放するための作品を作る映像作家だ。彼女の作品内で生きる少女は、自由に踊り、走り、スクリーンの向こう側から私たちにまなざしを投げかける。その目に宿る力は虚構と現実の境界(フレーム)を越えて、今日も世界のどこかで生きる女の子の心を掴んでいるだろう。


脚注

※1 "日本映画業界の制作現場におけるジェンダー調査 2021年夏"、Japanese Film Project(参照日 2022/1/30)

※2 "映像作家の世界・山戸結希スペシャルインタビュー"、SPACE SHOWER TV(参照日 2022/1/30)


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