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予告されていたとおり、駅はその言葉通りの機能を残して、工事中の文字の書かれた白幕の内に消えていった。工事用ヘルメットをかぶった男たちが煙草をふかしていて、慣れ親しんだお店たちが、一ヶ月の閉店セールを経て売り物を減らし消えた。駅近くの店も、改修工事に伴って、少しずつ様変わりするのだろう。この街も都会の仲間入りをしてしまうのだろうか。ハイヒールを履いた女性が軽快に階段を降りる後ろで、私はすり減ったローファーの底が滑るから、どうしても、慎重に降りることになる。「あの店で新しいローファーを買おう」なんて考えたけど、その店も駅からは消えていた。高校三年目、曇り空の春だった。
 なんにでも高校最後をつけるみんなは、一つ一つ楽しそうで輝いている。高校最後の文化祭、高校最後の体育祭、高校最後の、恋。そうしてしまえば、なんでも青春の思い出になると思っているのだろうか。このままぼんやりと過ごすうちに、高校最後の登校日が来て、私は制服を捨てるのだろう。次の春はそんな春だ。そういえば、駅の改修工事は二月くらいに終わるらしい。この一年で、私は何か変わるのだろうか。そんな事を考えてしまう私は、くすんだ青春しか知らないのだ。冬に比べ暗くなるのが遅くなった空に、じっとりと夏を感じた。小さくなったローファーの靴ずれが、蒸れが、私の足を痛めつける。家に帰り着けばこの靴とも一晩だけお別れだから、そう思うと鞄も足取りも軽くなるなんて、ただの夢だ。私は重い鞄を肩にかけ直した。
 また朝が来る。昨日の雲が重さを増した空だ。午後の体育が室内か、あわよくば中止になることを祈りながら、私はまだ少し寒い春の朝に時計を見ないふりにしたまま足先を布団に突っ込んだが、このまま遅刻する度胸もないから、スマホを開いて時間を見て体を起こす。リビングからニュースキャスターの声が聞こえて、朝から人前で生放送なんてすごいなあと、人並みのいつも思っていることをいつも通り頭に浮かべた。三年目の朝も、一年目の朝と同じように、いやそれ以上にドタバタと準備をする。私は扉の鈴をガチャガチャと鳴らしながら家を出た。
 学校帰りに立ち寄ったいつもと違う靴屋で、ローファーを買う。都会のおしゃれな靴屋では、古臭い靴屋独特の靴磨き用クリームのつんとした匂いはしない。声の高い女性が「少し大きいですね」と言いながら、少しきついローファーを勧めてくる。私は靴擦れが怖くて、「さっきのでいいです」と言う。都会で買うローファーはいつもより硬い。

 私は春先より重くなった鞄を肩にかけ直した。額にへばりつく前髪をはらって、まだ硬さの消えないローファーをカポカポ言わせながら、駅の階段を上る。高校二年間乗っていた時間の電車は、ダイヤ改正のお知らせと共に消えた。改修工事に先立って、この駅は「特急」の止まる駅に昇格した。このたった三分の「普段」と違う違和感も、「急行」じゃなくて「特急」に乗る違和感も、自販機に気の抜けた「あったか〜い」の文字が戻ってくる頃には、消えてしまっているだろう。「そういえば、そんな違和感もあったなあ」なんて、思い出すこともない。私は汗ばんだスーツに交じり、時間の三分ずれた「特急」電車に乗り込んで、朝の満員に汗ばむ顔を拭いた。高校最後の文化祭も体育祭も終わってしまった夏のことだった。
 朝に帰ってきた模試の結果はいつもと変わらないような順位で、結果を見て私はそっと息をはいた。「良かったんだ」なんて話しかけられるのは避けたくて、みんなと同じように下を向いて、まずまずの結果を見る。下がらなければ、それでいい。そう思っているはずなのに、私はなぜか親指のささくれをめくっている。行き過ぎたそれに、血がプツと少しだけ、それなりの勢いと共に溢れてそれは、ポケットティッシュの端の端を、赤く染めた。ホームルームが終わると同時に、周りはテストの順位のことで騒ぎ出した。私は二本の腕で、この暑い夏に閉じこもるように、耳をふさいで突っ伏した。ジンジンとセミが脳内で喚いている。
 改装工事中の駅も見慣れてきた。薄汚れた自動販売機では、新商品のメロンサイダーが、いつもは二列あったオレンジジュースを、一列分押しのけて、赤や黄色の「新商品!」のとげとげしいシールと共に現れた。どうも甘そうなそれは、飲んでもいないのに胸焼けがする。そんなものを買う勇気は、私にはない。私は結局サイダーを買って、プルタブを軽快な独特の開放音を鳴らしながら上げ、家までの道のりを、喉を鳴らして歩いた。ふと、放課後の先生の声が戻ってきた。
「お前、本当にこの大学でいいのか。高崎なら、もう一個くらいランク上げてもいいと思うぞ。ここに固執する理由が何かあるのか」
「今のとこでいいです。無理したくないので」
 蝉がわめく教室で、先生は私の模試の成績を開いて、シャツに汗を垂らしながら「熱血教師です」と言わんばかりの大声で私を説得しようとする。「しかしだな」で始まる先生の言葉をつっぱねた。最後に先生はあきらめたような表情で「まあ、がんばれよ」と言った。棒読みで力のないそのがんばれは、蝉の声にかき消された。
大学のランクをあげることは、挑戦だろうか。不安定な道に進む勇気はなかった。受験に確実はない、最後まで何が起こるかわからないなんて教師は言うが、第一志望の大学はそうそう落ちないだろうと思っている。そんな確実を捨てることはできない。「そうか、一個ランクを上げるのか」「はい!」「そうか、お前ならできる。がんばれよ」と私の前に面談をしたクラスメートと担任の会話が耳の中で反芻した。がんばることはそんなにも重大だろうかと、私は飲み終わった空き缶を蹴飛ばした。缶の隅に少しだけ残った液体が、地面に線を少しだけ引いた。その凹んだ空き缶を、地面の上に置き去りにしておくだけの勇気ですら、私には無い。夏の嫌な空気が、私をなでた。

 とうとう駅は外装工事が始まってしまった。枯れ葉の集まったところを、ランドセルの少女が傘でかき混ぜる。そんな秋を私は横目で見た。受験が近づく。勇気のない私は、挑戦することはせずに、ぬるま湯に浸ったままこの半年を過ごした。模試の判定はいつもAかB「油断するなよ」なんて教師の声は聞かなかったフリにして、左手に英単語帳をもって、勉強しているつもり。右手はしっかりとスマホを握って、昨日も一昨日も通った駅からの道を歩いた。赤信号の先に、いつもと違う桃色の雲が、ビルとビルの間に少しだけ、漏れるように姿を見せている。秋を過ぎて冬が来て、周りはどんどん「受験モード」で、私は何も成長しないまんま、鞄はどんどん重くなる。肩にかけなおすことすら、私には面倒だ。

 願書提出の日になってもなお担任は「本当にそこでいいのか」と言ってくる。目を合わせることもできずに担任の赤いネクタイに目を落とす。担任は学校の、自分の、合格実績を上げたいだけなんて捻くれた考えをして「いいんです」と突っぱねた。帰り道の駅はスタバができる噂で盛り上がっていた。私は模試の結果も志望校もずっと何も変わらないまま、指先のいたるところの皮をめくっていた。
 
 電車を降りると、隣で小学生が息を白くしている。それをお母さんだろうか、女の人が笑いながら見ている。その横を私は手をこすり合わせながらすり抜けるように歩いた。マフラーの毛が鼻についてムズムズするから、少しだけ下げて、寒さにまた震えて、元の位置に戻すことを繰り返している。ローファーの靴底がすれて薄れて、ホームを降りる階段で滑りかけた。
 駅が様変わりした。それがこの街のニュースだった。私は、少し汚かった床を思い出しながら、木張りの新しい床の上を一歩ずつ一歩ずつ歩いた。美味しかった和菓子屋が、甘いスイーツのお店に変わった。おかず屋さんと、居酒屋と、ラーメン店のあった場所は、スタバと、少し高いレストランと、丸ベンチに変わってしまった。春の終わりに買ったローファーとも、あと少しでお別れだ。駅を抜けてふと振り返り、見回す。この街はどこかお高くなった。周りのビルはどんどん建て替えられて、気づけば一年前よりずっと高い。女の人のヒールも高くなった。
私は、「努力」の伴わない合格通知を手に入れた。あれだけ上の学校を進めていた担任は、周りと違う冷ややかな「がんばれ」を私に向けた担任は、周りの合格を祝う時と同じ笑顔で私の合格を祝った。一つランクを上げたクラスメートは不合格で、最後の近づいた制服を濡らしている。私の選択は、間違っていなかったはずだと何度も何度も、頭の中で繰り返した。
 暖かいオレンジが枯れ木を照らしていた。それは、今年から始まったイルミネーションだった。みんなの足取りは少し軽そうだ。
 私の鞄だけが、なぜか、ずっと重い。

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