写真の中に人がいない
伊勢へ旅行に行った。写真を撮った。つか、旅行に行った際に写真を撮らないものがいるのはかなり稀有だろう。僕も旅の作法じゃいと言わんばかりに、写真をバッシャンバッシャン撮り、その様子は当にカツオの一本釣り。船首・右舷・左舷から竿を垂らし、次々に活きの良いカツオを釣り上げる。その様子は当にせわしなく、上手い人間ともなると2秒に一匹は釣り上げるというが、そういうスマートさを有していない僕は、5秒に一回、いや、50秒に一回くらいのペースで写真を撮りまくっていた。本当に正しいのだろうかカツオの一本釣りの例えは。
今その写真を見返している。内容は、建物風景食べ物あとなんかよくわからないもの。目に入るもの全てを、と言っていいぐらいに写真というデジタルデータの中に収めている。だが、不思議なことに人が含まれている写真がてんでなかった。おかしい、今回の伊勢への旅行はたしかに友人たちと行ったはずだ。それなのにも関わらず、カメラの写真データの中には友人の姿はこつ然と消え、さも今回の旅行が僕だけが行ったものなのではないとかと変換されているような感じすらあった。
これはおかしいと思う。写真、もといカメラというのは、何かその瞬間や一瞬の時を写真という目に見える形で保存できる道具である。これ謂わば記憶の保存のようなので、脳の記憶領域に頼ることなく記憶を保管する外付けデバイスのようなものだと捉える事ができる。して、瞬間を保存するというのであれば、刻一刻と老いという滅びに向かっている人間こそを記録するべきではないだろうか。無論、風景や建物も同じく刻一刻と変化。滅びに向かっており、この理論が成立する。
しかし、その場その場で交わした言葉などや感情などというものは、その場その場で消滅するものであるが故に、記憶の中から消滅することは容易い。それを証明するかの如く、一週間前でした会話の記憶はもう既に八割以上は記憶の彼方へと消滅している。楽しかったはずではあるのだが、ずっと覚えていても仕方がないものではある。それ故に彼方へと行ってしまったのだろう。
扨、それをわかっておきながらなぜ人を廃して写真を撮るのだろうか。意識的に人を廃しているのだろうか。と、考えたのだが、多分そうであるなと思う。風景や街の景色、人というのは刻一刻と変化しているというのは右でも述べたとおり。なのであれば、人より風景のほうを記録することが大事でだと考えているという結論に至る。
風景・建物というのは壊れると二度と同じ形に戻ることはない。それを模した形で復活させるということは可能であるが、それはあくまで復活させたものであってその風景そのものではない。もし本当に読みが得させるのであれば、当時使っていた材料をそのまま現代に蘇りをさせるという離れ業をやってのけなければならない。そんなことは不可能なので、今ある風景というのは滅びに向かう一辺倒だと考えるとができる。
人というのはなんだかんだと言って滅びに向かうことは難しい。滅びに向かう際にはしっかりブレーキをかけるだろうし、精神的・身体的な問題が出たとしても伴った機関にかかればどうにかなったりする。しかし、建物や風景になるとそうはいかない。維持管理することで長く使えるかもしれないが、所詮はモノなのだ。新品であるモノも最後には朽ちてなくなるのが常。であれば、そのモノであるところの風景や建物を写真に収めて記憶に残したいと思うのは、人の写真を残すより優先度が高くなる。
多分、こんな理由で風景の写真ばかり残していたのだと思う。もちろん人の写真が一枚もなかった訳では無い。スマートフォンの中にしっかりと、しょうもない画像が何枚か残されている。
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