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コーマック・マッカーシー『アウター・ダーク』を読んだ

 コーマック・マッカーシーの『アウター・ダーク』を読んだ。相変わらず、主要人物の心情が言葉で描写されておらず、人間の言動、人間の行動に伴い形を変える自然物、眼の前におこる自然現象ばかりが淡々と言葉で描写されていた。
 事実だけを描写しているのにも関わらず、読み進めていると言い表しようのない不気味な雰囲気や他人に隙を見せることができない緊張感、捕まれば一瞬にして命を握られる悪意じみたものなどが這い寄ってくるような気分になる。この感じはマッカーシー作品を読んだときにしかやってこないので、彼にしか描写できないものだと思う。先日、未翻訳の作品が出たというので、早くもいつ買いに行こうか悩み始めた。
 読み進めながら考えていたのだが、こんなにも人間の心情を言葉で描写しないということはどこかで心情を表す別のものがあるのでは、ということだ。人の内情を抉って言語化する物語に於いてそんなのは当たり前かもしれないが、ことマッカーシーにおいてはそうではないと言える。
 例えば、とある人が「あの日、私は大切な兄を誰かに殺されて失ってしまった。とても憎たらしい。とても悲しい」といった具合に自身の心情を言葉で文章化し吐露したとする。この文章を一瞥するだけで、“この人はとても怒っていてとても悲しいのだな”ということが理解できるのだが、マッカーシーの場合は「兄が死んだ。表の通りでは強い雨足が水溜りに映った赤と緑のけばけばしいネオンサインを掻き乱し沸き立たたせ歩道脇に数台駐めてある自動車の鉄の屋根の上で踊っていた。」といった具合になる。前者では“怒って悲しい”という心情を言葉で表しているため容易に掴み取る事ができるのだが、マッカーシーの文章の中では事実と自然現象だけが乱立しており、言葉で心情は一切ない描写されない。淡々と事実だけが連なっている。
 事実しか述べない、鉤括弧・読点を使用しないというスタイルのため大変に読み難い文章になっているのだが、それでも主要人物の心情を読み取ることは可能だ。心情を言葉で表さないというのであれば、他のもの、言葉以外のものに置換されているだけの話である。
 『アウター・ダーク』は、近親相姦により生まれた赤ん坊を巡って兄と妹がそれぞれ流浪するという凄惨な物語だ。その凄惨さ故に目も当てられないシーンに遭遇することがあるのだが、それでも心情は言葉で一切描写されない。では、いつ心情を解するのか。それは登場人物の行動から汲み取ることができる。
 兄は、赤ん坊を森の中に放置し捨てる恐ろしい行動を取る。恐ろしい行動なのだがもちろん心情は一切描写されない。物語が進んでいくうちに、兄はとある三人の男たちに遭遇する。三人組はいかにも悪どい感じで兄を脅迫するのだが、その脅迫されている場面こそが、兄の心情を理解するのに必要な場面ではないか。脅迫行為にさらされている場面でなにが心情かと思うのだが、その脅迫行為または脅迫行為に至る過程にある会話こそ兄の中に存在している赤ん坊に対する罪悪感や強迫的な心情を表しているのではないかと思う。
 作中ではそういった場面が多くある。兄の場合では悪どい三人組や氾濫する川であったりするし、妹の場合では殺し合いを始める夫婦だったり鋳掛屋だったりする。そういった数多くの場面から、言葉で表されていない心情を汲み取り、こういうことなのではないかと想像に耽る。今まで読んだマッカーシー作品も同じことが繰り返されていたのではないかと思うのだが、ようやっと『アウター・ダーク』にて理解することができた気がする。

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