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森博嗣の『馬鹿と嘘の弓』を読んだ

 関係の薄い知り合い、お互い顔は知っている程度の知り合いが捕まったことがある。それもかなり大きめの罪で。これ以降、音沙汰が無くなれば風の噂も聞くことも無くなった。
 ここでいう捕まったというのは法的にまずいことをして警察のお世話になったということだ。とある日に飯を食いながらニュースを眺めていると、知った顔がスマートフォンの画面に写ったもんだから大変に驚いた。驚いたと同時になかなかにショックを受けた。凡俗なことではあるが、なぜこの人がそんなことを…と頭に思い浮かべた。
 その人とは関係が薄かった。薄かったのだが、友人を介してお互いの名前と顔を知っている状態であったため、勝手に親近感を覚えていたし、何となくその人とは細い糸で繋がっているような感覚があった。
 その人は、とある地点から地域を発展させたいと考え、とあるアクションで振興を計画している人物であった。地道なアクションであったが、着実と振興の趣味を進めており、彼を中心としたコミュニティを築くことができていたし、県内ではあるが知名度もそれなりに上げていた。僕は当時就いていた仕事でその人のアクションを応援したこともあったし、その人からも仕事を貰ったこともある。その人はそういった流れを作り出せる力がある人であったし、そのまま行動し続けていれば確実に良い方向に進んでいた。進むことができたはずだ。しかし、その人は捕まった。捕まって自身が積み上げたものを無に、マイナスに変えてしまった。
 「その人はこんなことをする人じゃない」「こんなことをするなんて」と、その人に近しい人は皆々口にした。関係が薄い人間だが僕もその一人だ。その人が犯罪を犯す姿が想像できなかった。だが、此れは僕の想像力の限界なのだと思う。こういう経緯がありどんな理由があって凶行に及ぶことになったのか、その人の周りを観察・見返してみると断片ではあるが理由のようなものが存在している。存在しているはずなのだが、僕たちはそれに気が付かないし、気がつく由もない。なぜなら、そういう未来がやってくるんて想像することができないのだから。
 結局、その人のことはその人でしか理解できないのだろうか。僕を含めた周りの人がその人に対して働きかけることで、望まない未来を阻止することはできたのだろうか。僕たちはその人に対して何もできることはなかったという無力感を払拭することはできないのか。どちらにせよ、もう干渉することは叶わない。
 森博嗣の『馬鹿と嘘の弓』には、そういう無情が描かれていた。「第4章 血の叫び」を読み終える頃にはその人のこと思い出していた。

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