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伊勢に行きました、もとい大阪に行きました

 伊勢にいつてきた。これがかなり楽しかった。グフフ。
 伊勢に行くためにわざわざ21時以降の大阪で一泊するなど無駄なことをしたが、旅というのは無駄なことをして楽しむというもの。その無駄こそが旅行に色をつけるのである。と、立派なことを口にしたが、無駄な行為は一人行動のみでしか楽しむ事はできない。複数人の旅行となると、無駄な行為が相手に対して負担になっていないだろうかと不安になる場面がチラホラと散見するため、この大阪でも無駄な一泊こそが僕自身、個人としての旅行であったと言えるかもしれない。そのぐらい大阪での一泊は無駄だった可能性がある。
 無駄だ無駄だと言っても、僕は大阪のことは嫌いではない。むしろ、愛している・愛し始めていると言って差し支えがないほどに、頭の片隅に大阪が鎮座している。岸政彦氏の著書で「沖縄の魅力に取り憑かれ沖縄に住みたいと思い始める”沖縄病”に罹患した」という旨の記述を読んだことがあるが、多分僕はそれと同じで「大阪の魅力に取り憑かれ”大阪病”に罹患している」のだなと思う。それ故に、大阪での無駄な一泊。神戸空港に着地したとはいえ、そのまま伊勢に向かえば大阪・新今宮で余計なカネは使うことはなかっただろう。しかし、僕は新今宮に降りて余計なカネを使うことにした。
 それはなぜか。答えは単純で右に述べた”大阪病”に罹患しているからである。大阪に一瞬でも一分でも一時間でも一泊でも多く大阪に滞在している事により、その土地が持つ空気感というかトーンというか口での説明は難しい空間を味わいたいが為に個人で無駄な時間を過ごし、カネを消費するのだ。
 して、今回は21時前に新今宮に降りたのだが、これがものすごかった。移動の関係上、夜飯を食べることができなかったので適当な場所で済まそうと思ったのだが、その適当な場所は殆どが21時には暖簾を下げており、静寂の中に沈んでいた。「観光地だし金曜日だし何かしらの店がやっているはずだろう」という甘い目論見は崩れ去り閑散とした雰囲気が広がっていた。いや、これは正確ではない。正確に言うと、新世界側はもう既に床に入っており、動物園前一番街はガンガンやりまっせ!という感じだった。片方は公務員のような仕事形態だから今から寝始めて、もう片方は夜勤の看護師だから今から仕事という感じで働き始めているというなものだろう。多分。
 前回来た際にも、21時以降の雰囲気は味わっているはずだが、酒の飲み過ぎにより記憶が朧なので、今回のような賑わっていない、もといジャンジャンバリバリしていない雰囲気というのは認識できていなかった。派手な感じは無いにしろ、どこかからカラオケを歌う声が聞こえてくる。その感じこそが飲み屋しかない街本来の魅力ではないではないだろうか。そう考えるぐらいに21時以降の新今宮周辺は魅力に溢れていた。
 そこいらを散策しながら飛行機・電車での移動疲れを整える。なんとなくいい感じなったところで、前々から気になっていた能登屋という店の暖簾をくぐる。適当な席に座り、カレイの煮つけとおでんを頼む。どちらも強烈に美味いというわけではなかったが、なんとなく酒に合う感じがしてとてもいい気分になった。僕以外の客は酔いに限界を迎え机に突っ伏している爺と、お水の女に対してクドクドと人生論を説く奇妙なオヤジ。彼曰く「お前は男選びのセンスがないねん」らしい。彼自身がそれを実践していることに違和感を覚えることなく、古びたラジオから流れる知らない演歌に包まれて夜はどんどんと更けていった。
 やはり、大阪で飲む酒は気持ち良いなと飲んでいたのだが、明日早朝5時起床ということを思い出し、程々にしてホテルの喫煙可の部屋(禁煙の部屋を予約していたはずなのに)で、泥のように睡眠を貪った。


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