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ノーパンツストリートファイティングマン

  朝晩の気温が低くなり寝起きが鈍くなる。表皮の水分がじわりじわり枯れたかの如く指先は少しひび割れ、触るもの全てからカサっと音が鳴るように鳴る。そう、秋の季節がやってきたのだ。
  この称賛すべき秋の気候を一身に受け散歩に出かけることにした。服は選ぶことはないのでもちろん簡素、Tシャツにサンダル、今にも寝間着に都落ちしそうなバスパンという格好で出かけることにした。もちろん、下着は穿いていない。ノーパンだ。
  秋になると下着を装着せずに散歩に出かけることがある。これはあぁん、解放感がきもちーきもちーのーとかいう変態チックな発想ではなく、祭礼行事のようなものである。そう、例えるのであれば、豊年祭。豊年祭は、今年一年の豊作・豊穣に感謝し、来夏世(くなつゆ)という豊穣の神に祈ったり、アチヤ獅子という獅子舞を行い、来年の五穀豊穣を祈願する祭事のことである。それと秋の夜長にノーパンで浮浪することは似ているのだ。
  ノーパンと豊年祭が似てたまるか、あほぼけかすっ、と言う前に少し考えてみてほしい。我々は下半身は何によって守られているのかを。余分でビロビロとした皮だろうか、それとも亜熱帯原生林の如く有象無象に栄えた黒だろうか、いいや違う、下半身を守護しているのは肌にピッタリと張り付く綿である。平安の世、治安を守っていた検非違使の如く、この綿は病原菌や汚れ、股擦れといった様々な外敵から身を守ってくれる。しかし時には、使用を重ねた結果、限界がやってきて破れたり、または、恐怖にわなないた人間から発射された液体たちを一身に受け止めたりする扱いを受ける。しかし、綿たちは一言も文句を言わず、そこでジッと動かずに堅牢に下半身を守っている。やっべー、まじかっけーす、と思い、尊敬を覚えるのだが、綿たちに誉を感じる情がない。実に残念だが、この尊敬の念は心にしまうことにしよう。
  して、ここから考えるに、下着たちは365日一年間無休で働き続けている。そんな休み無しで人間たちから発射された液体を受け続けていては気が狂ってしまうのではなかろうか。そう考え、僕は秋の夜長には下着を穿くことなく、涼しい星の下で浮浪することにしたのだ。綿たちに今年一年働いてくれたことを感謝し、来年もまたどうぞよろしくと感謝して休ませるのだ。これを祭事と言わずしてなんというのか。ありがとう、全ての綿たちよ。
  と、考えながら近所のアーケードを歩き、「〽豊年でーびる 豊年でーびる シートゥリトゥテン シトゥリトゥテン」と歌いながら、暗闇に去っていった。

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