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井伏鱒二「川釣り」

 井伏鱒二の『川釣り』を読んだのだが、これがものすごく良かった。
どこが良かったかと言うと、釣りの技術に関して何も述べていないあたりが良かった。いや、多少なりとも技術が云々カンヌンと書いていた気もする、氣もするが、技術に固執するのではなく、釣りを通じて人との交流がありましてんが主題であったと思う。
 そもそも、書の序盤に「これは技術を教える所ではありません」と断り、もとい保証がが入っているように、技術を継承する意図は全く無く、自身に起きたこと、例えば”白毛を巡って強奪にあった話”とか、言ってしまえば今僕が書いているような日記的なスタンスで話を進めていく。
 それのなにが面白いのかと問われると閉口してしまうが、なんというのだろうか、文章のリズムであるとか言葉遣いとかが美味く調和して、読み手の気持ちを上手くくすぐってくれるのだ。今の言葉で言うと、バイブスが有るというのだろうか。そんな感じがする。つまり、むっさ良い文章が続いているのだ。
 中でも、この書の中で「十年釣りをして三行書け。」という言葉がものすごく良い。これを詳しく言うと、「十年間、釣りばかりのことを考えた人間だけが、三行の文章を書けることができる」ということだ。十年以上何かを好きになり続けるというかなり難しいことを要求する上に、十年好きに成ったとて三行しか自身の気持ちを表すことができないのだ。ご無体な!と叫ぶところであるが、これがものすごく良い。
 三行、三行で思いつくこと言えば、俳句だ。俳句は自身が目にした情景や心情を、ギュッと短い文章で締めるという文章における高等技術の塊のようなものである。実際に僕が何個か考えてみたとて、情景を伝えるどころか失笑を浮かべさせて終わることだろう。それぐらいに俳句は難しい。そんな難しいものを駆使して、釣り好きは自身の心情を三行で表せねばならない。これもご無体だと思うのだが、釣りという特殊な状況を考えれば定かではなくなる。
 釣りというのは、待つことが主たる動作である。獲物がかかるまで、待ちに待って水面を凝視し続ける。波一つに神経過敏となり、少しでも変化があればビクンと体を震わせ竿をしならせる。大物か小物か、それは問題ではない。今さかなと向き合うことが重要であり、この相手とどういう取組をするべきかを考えるのだ。
 そう状態まで突入してしまうと、自分のことしかがんが得ることができず、周りのことなどどうでも良くなるだろう。魚と自分だけの時間。魚という自然と釣人という人間が向き合うかの時間。つまり、人間一人が自然と向き合う時間が多くなる。その時間がいつの間にか一年、三年、五年、八年、十年と、気がつけば多くの時が流れていることに気がつくだろう。そこで多くの時を過ごした人間は気がつく。もう少し人間的な時間を過ごすべきではなかったかと。その境地に至った人間が、右の言葉「十年釣りをして三行書け。」という言葉を苦し紛れに思いついたのではないか。
 多分そんなことはないのだろうけど、この『川釣り』を読めばそういうことを思うかもしれいない。いや、思いつかないと思います。そんなことより、ヤマメが食いたい。

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