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夢の中で逢えたね
昨日、夢で死んだ愛犬にあった。
夢の中での愛犬はとても元気で、僕が駆けだせば後ろから全速でついてきたし、勢い余って僕を追い越したりするなどしていた。休憩の最中に頭をなでながら観察してみると、死の原因となった耳の大きな腫瘍は全くに無くなり、綺麗な耳をピンと立てていた。その立てた耳があまりにも愛おしく、べらべらしゃぶってやろうかと思たが、夢の中なのに自制心が働いてやめた。駆ける様子は、何にも縛られぬかの如く野原を駆ける姿が美しくて、ものすごく愛らしかった。あの世で元気そうにしている様子を見せつけられた気がして、ものすごく夢見がよかった。
よく耳に挟むのだが、死んだ犬や猫に夢の中で会うことがある、という。そんなことあるのだろうかと思っていたのだが、実際に会うことができた。昨日の僕のように。夢の中で出会いひとしきりアソb尽くした後に、夢から覚める。現実にはもう愛犬がいないことを実感し、絶望にふける。これまでが一連の流れらしい。
これはもう、確かにそうである。としか言いようがない。夢の中で現にはいない存在と邂逅し、心行くまで遊びつくし、安寧をもたらしてくれる。その安寧こそが人が生きていく上での希望となりうる。生きていれば、また彼のような存在と会えるかもしれない。生きていれば、また同じような体験ができるかもしれない。そういった類の希望をもたらしてくれる。
しかしながら、夢は所詮夢であるからして、決して現実になりうるようなものではない。夢の中で会う存在が、自身の記憶・現実を基にしていてもだ。夢は虚像であり現実ではない。現実でないからこそ、現に実現できるものであるかも怪しい。しかし、虚像であるからこそ、夢はあの世に行った存在と現を合わせてくれる門 ゲートのような役割を担ってくれる。その虚像に対して安らぎを得ることがであれば、人は何度でも夢を見ることに憧れを持ち続ける。希望があるからこそ憧れを持ち続ける。これこそが夢の正体である。
何の話であっただろうか。そうだ、夢の話である。
悲しいことに、愛犬と遊んでいる夢を見ている間「これは現実はなく夢だ」という冷めた考えが脳内を支配していた。だってすぐにわかるであろう。死んだはずの愛犬が目の前にいるのである。愛犬が死んで三か月。やっとこっさ愛犬がいない生活に慣れてきたかと思っていたらこの夢である。現実であると思うほうが難しい。そのぐらい心地の良い夢だった。嘘、できればまたあの駆ける姿を見せてほしい。帰ってきてほしい。戻ってきてほしい。走ってきてほしい。あの時みたいに。頼む。
現実であると思うことができず夢であると思うからこそ、夢の中でいっぱいに撫でまわし可愛がり互いの中を貪りあった。夢であると頭の中で理解していても、目を覚ませば、いつもの定位置、仰向けで寝ている足の間に陣取って暖を取っている姿があるのだろうと思っていた。しかし、目を覚まして眼に映る空間は空虚。残り香すら感じることができなかった。
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