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世界の半分を怒らせる方法②

 発熱で限界が来て失神したので二分割。内容は前回のほぼ続き。
 して、押井守のリアリストな面が一体何なのかというと、多分僕はこのリアリストの押井が好きなのだということだ。妄想を映像という形にする映画監督の押井よりもだ。
 あんだけ押井の作る映像は最高、素晴らしいとべた褒めしておいて今更それ?と自身でツッコミを行っているが、どちらも好きと断定したうえで、どちらかを選べと考えた上での選択だ。映像が好きの証明としてなるかわからないけど、もう誰も話題にしなくなった『ぶらどらぶ』を観ながら未だにえへえへとニヤついている。押井の笑いが詰まった最高の作品だと思う。
 それはさておき、何故リアリストの押井が好きだということだ。そんなリアリストの人間が好きなんて、お前はいったい何を考えているのか。そんなに現実に即して物事を論じる小うるさい人間が好きなのか。側にいたら老害や御局やと言うような小うるさい存在が増えるんだぞ。と、言われることうけあい。そんなことはハナから承知です。
 押井は「映画を作るのが監督というのであれば、映画がつまらなくなったのは全て監督の責任」というぐらい自分の仕事に対して責任の所在をはっきりとさせているような人物だ。誇りを持って仕事をこなしているし、仕事中でもない人間の意見を聞いたとしても一切ブレることが無い。それ故に、仕事仲間がいれば友達なんていらない、現状維持のための協調性ばかり重んじるコミュニケーションならしないほうがいい、とリアリストの極北みたいな考えに到達している。
 もちろん、その考え全てに賛同する訳では無いが、仕事という現実になぞって論じているので、その分理解することが容易になる。理解することが容易ということはどういうことかと言うと、自分が行っていることに対して応用が利くということだ。仕事仲間だけ付き合っていればいいということに関しても、仕事に関して有意義な関係性を築いていけばいいだけだし、コミュニケーションに関しても、なにが必要でそうでないかを取捨選択すればいいだけの話である。
 そういった、実生活に応用できるであろう(活用できることは微細だけど)押井のリアリスト的な物言いが最近になってものすごく好きになってきたのだ。映像作品がわかりにくいからだろうか、とも考えてみたが、わかりにくいからわかりやすい方向を選ぶというのは好きの方向性が変わる理由にはなり難い。これは何故かと考えてみた所、きっと責任という言葉になにかしらの鍵があるんではないかと思う。
 できれば、責任という言葉は使いたくないし、責任を取りたくもない。しかし、そうも言っていられない年齢になってきた。自分の仕事に対しては責任を背負わなければならないし、なにより自分の生活に対して自分で責任を背負わなかればならない。生きていれば何かしらの責任にぶち当たるし、責任がないというだけで人から信用されなくなる。金も借りることができなくなる。責任がなければ人たる所以であることが難しいのだ。
 その責任に対する価値観の変化こそがリアリストたる押井を好きなってきた理由では無いかと思う。先日読み返した『世界の半分を怒らせる』には多分そんなことが書いてあった。うそ、書いてなかった。

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