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新しい釣り竿を買った

 新しい釣り竿を買った。釣りなんて久方ぶりに言っていないけど、釣具屋に掲げられたセール中の文字を眺めているとなぜだか新しい釣り竿が欲しくなり、いつの間にか購入していた。高くない買い物であった。
 買った釣り竿は延べ竿という、シマノのリルもガイドも付いていない竹かカーボンで作ったような一本の棒。その棒の先端に糸・ラインを括り付け、目的地に向かってオリャっと投げるだけの簡単な釣り竿である。そういった竿を買った。
 私が住んでいる沖縄県は海に囲まれた島であり、釣りが盛んな地域と言ってもいい。沖縄県民は酒を飲むことに飽きたら竿を持ち、海に向かって咆哮しながら三線を片手に踊りだす。その踊りの最中で、どんどんどんどんと魚を釣り上げてはカルパッチョに仕立て上げる民族なので、魚ひいては釣りに関しては一家言あるような人間がゴロゴロいる地域なのである。
 その一家言あるというような環境がかなりの問題なのである。その一家言とはなにか。それは「釣りをするんだから大物を釣ってなんぼでショ」という空気感のことである。海に囲まれた島で釣りをするとなると、ただの雑魚を釣っては気分などが晴れるはずもなく、大物、大物とだんだんと刺激を求め続ける依存者と成り果てるにほかない。外洋に面した土地が近ければ近いほど、この一家言の傾向は強くなっていくと思う。
 その一家言が跋扈する環境で延べ竿を出すとどうなるか。そらもう罵詈雑言です。「え、あれって延べ竿?うっそー、ここまで着て延べ竿?いっやー、いやいやいや、こんな磯で、延べ竿?勘弁してくださいよ」とか、「の、延べ竿とか。さてはあんた陰キャ?うっわ、やめて、陰キャが堤防立つなよ。波に攫われてしまいますやん」とか、「やめてー、近づかないでー、陰キャのカビ臭い匂いが写っちゃうー」とか言われてしまいます。悲しいことにね。
 しかし、そんな罵詈雑言を気にしては釣りなぞできないので、心を落ち着かせ水面に針を落とす。落とした場所からじんわりと波が広がる様子が何とも風流であるなぁと思いながら、携えた酒を口にする。ボンヤリと当たる西日が肌をじんわりと焼き付ける感覚は釣りでしか味わえないと思う。
 して、釣りというのはお膳立てみたいなものだと思う。
 釣りと聞くと、狩るもの狩られるものみたいな区分があるのかと思いきや、狩るものは狩られるものに対して「これめちゃくちゃ美味い餌っすけど、どうします?食べません?食べません?え、食べない?ええぇー、まじすか。こんなに味を精密に整えて貴方様に食べてほしいなと拵えたのに」というような、お膳立てが必要になってくる。まいったことに、このお膳立てが下手だと、狩られるものは「そんなん食わんし不味そう」とか言って食わないのである。おこがましいことにね!
 お膳立てが上手くいくと、狩られるものは「頑張ってますなぁ。そしたら、不肖テラピア。いっちょ食ってみますか」みたいな感じでガッと外来種が食い始める。狩るものはその好きを逃すことなく「馬鹿が」と言って、獲物を釣り上げるのだ。その一連の行為が狩りであり、お膳立てこそ自身の満足を満たすのだ。
 そんなことを思いながら、水面に向かって針を落とす。そう言えば沖縄では漫湖という湿地がある、その名は読んで字の如くである。その漫湖に向かって釣り糸を垂らすと、「漫湖が糸引いてらぁギャハハ」と言われたものだ。言われたものだ。だから?だから何?え、糸引いているからなんですか、なんなんですか。

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