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社会にでることはお風呂

私は働きたくない(社畜になりたくない)理由として

文化的側面を失うことが嫌と言っている

が、

仕事をしながらそれは可能なのではないかという疑問と

現在文化的側面を持っているのかという疑問がでてきた

私は読んだり見たことを内面化するために

感想を言語化している

それをドヤ顔で趣味といいはり、

その習慣こそ文化的だからその側面を失いたくないと言っている。

現在どれだけの時間それにかけているのか

忙しくなったことで思考できなくなるわけではない

働くたくないという誰もがもっている欲求を

私は言い訳を持ったことで欲求が肥大化している

夢をもっているわけでも、その作業が忙しいわけでもない

ただ、マジョリティーになりたくない

そんな子どものような駄々をこねているだけだ

就職しよう

そして日記を習慣化することで文化的な自分が強度を増すはずだ

学生でありながら習慣化できなければ、仕事が原因だとは言えないよね?

習慣化が忙殺されることで妨げられるならまた考えよう

「世界から猫が消えたなら」レビュー

見るきっかけが重要なのでそこから書く

異性の同級生とたまにメッセージのやりとりをしている

その子は映画が好きなのと、病気らしいことをSNSに書き込んでいた

SNSに病気で気が病んでる旨を書いていたので、私はおすすめの映画を聞いた

同情のコメントなんてしたくなかったし

その子のことを知らないから失礼かなと思い

映画を聞いた

その子と何回かやりとりをしてた際、この映画の登場人物であるツタヤくんに似ていると言われみることにした

はっきり言ってつまらなかった

登場人物の人間らしさが全く伝わってこなかった

登場人物の関係性も"なにか"を通じてあった思い出しかないし

人間関係は描かれていなかった

この世から”なにか”が消え、それに関する思い出として出てくる登場人物

その一人がつたやだった

つたやの場合の”なにか”は映画だった

つたやは主人公に映画を貸してくれる大学時代からの友人だった

本名がたつやだが、映画を貸してくれることからTSUTAYAと主人公があだ名をつけた

結構ひどい付け方だなというのと、大学生にもなってあだ名をつけることに少々驚いた

これはコミュニティによるだろうけど

私は高校以降出会った人をあだ名で呼ぶことはなかった

あだ名をつける行為自体はその人のユーモアが出るから好きだが

それを日常使いすることは内輪ノリのような匂いがする

あだ名については思い出があるから後述する

たつやとのつながりであった映画が世界から消えたことで

たつやとは他人になった

揚げ足に近いと思うが、映画がなくなったら映画に変わるなにか、たつやは劇中で読書家に変わっていた

この場合は本で繋がらないのか?と思った

映画を貸し借りする関係だけではなくそこには価値観などで関係性はできてたと思うし

そのやりとりがいっさいかったのが退屈だと感じた

当たり前に存在するものの大切さがこの映画のテーマかもしれないが

そこにいる人間が伝わってこないことは

テーマに足を引っ張られた映画かなと思う

あだ名の思い出

これは思い出としてあるのだが

高校生のころにTwitterで

ファボくれた人にあだ名つけますをやったことがある

そこでスベったのだ

正確にいうと私のを見てやった他の子がめっちゃウケてて

とんでもない数のファボがついていた

それが二段階起きた

私の上位互換の上位互換がタイムラインでウケまくっていた

この思い出があだ名への嫌なイメージに繋がっているのかもしれない

Twitterはいいねに変わったのにファボといい続けるのは

あの頃がよかったと言いたいわけではなく

ただ、あの頃はそうだったからです

字面でいうといいねの方がいいもんね

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