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ショートショート4 『アンコカラブル・ラブ』

「悠人がまたやってくれたのー、悠人はお利口さんね」

「うん、僕が消しといたよ。見て!親指ね、また黒くなっちゃった!」

幼い頃の僕はとにかく「消す」ということに、なぜだか夢中になっていた。
家のリビングには、木の縁で囲われた、高級感漂う大きなブラックボードが二つ置いてあり、常に何かが書いてあった。
幼かった僕は、そこに何が書いてあったのか、どんなことが書いてあったのか、それが重要なメモかそうではないか、その判断はついていなかったが、ただ「それらを消す」という作業に夢中になっていた。

「悠ちゃん、これをそこのティッシュ使って消しといてくれる?」

母に一度そんなことを頼まれた気がする。僕は二つ返事で、そして特に何を考えるわけでもなく、「わかった!」と、大きく頷いた。

「悠人、消しといてくれてありがとね。」

母を嬉しそうに、そしてすこし興奮した抑揚のある優しい声で褒めてくれた。
こんなことを母からいってもらった僕は、その時とても嬉しかったのだろう。何の気なしにただ「文字をササっと消した」それだけだ。
それからだろう、僕が取り憑かれたように「消す」という作業に没頭していったのは。

「悠人、また消しくれたのか、ありがとな、今度アイス食べ行こうな」

父は大学で教鞭を執り、非常勤講師として都内でも有名な大学でかつて働いていた。その傍ら企業の研究室でも働きながら、自身の研究に没頭していた。そのため、大概ブラックボードを使っていたのは父だ。
父が書いた、意味のわからない文章、まだ読めないそれらの文字はなんだか悪いやつに書いた暗号にも見え、ヘンテコな記号やサインなどはとてもカッコよく見えた。それを消したら次の日にはまた新しいものが見れるので、僕は恐いもの見たさ、興味本位で、消しまくった。



消し魔となり、少し経った時だ、父が顔を真っ赤にして、みたことのないような怖い顔でやってきた。「鬼だ」、幼かった僕はそう思った。

「悠人!お前が消したのか!父さんはまだ書き続けていたんだぞ、あれはまだ途中だったんだ!なんであんなことしたんだ、父さんに聞きもしないで!」

早口で、そして鬼の形相でベラベラと怒られた僕は、その時何を言われていたのかはもう覚えていない。難しい理解できない言葉がたくさんあったし、何より怖かった。

「悠人、聞いてるのか!もうお前はこのボードに触れるな、父さんが許可した時だけだ、いいな!」

それから僕は、一度もあのブラックボードの文字を消していない。

文字があったとしても、無視をした。重々しい、重厚な雰囲気を普段から放っている、あの大きな黒壁の存在をないものとした。
僕が成長し、大きくなるにつれて、どんどん小さく見えていったあのブラックボードは、いつの日か無くなっていた。
そして、両親の前で元気よく、見せつけるように「消す」ということも次第にしなくなっていった。



「悠人、なんであんなことしたんだ?別にそのままにしておけばよかったじゃないか。お前が気にすることなんかなかったのに、どうして」

いくつか小さな穴が開けられた、分厚めの透明なアクリル板のすぐ向こうで、父の声が聞こえる。
真剣な目つきで、切迫した雰囲気で、白髪混じりの初老の父が、悲しそうに呟いた。

「人様の家の落書きだ、それはそこの住人が業者でも呼ぶだろう。お前がやるべきことではない気がする。」

「お前が書いたものではない、それはわかっている。しかしなんだ、頼まれてもいないお前が、壁の落書きの前で何かやっていたら、住人の人は驚くだろう、お前が書いたんだって。」

「ここまでは父さんもわかる、お前は、昔からよく黒板消すの手伝ってくれたよな。あの頃から綺麗好きだったな。しかし、消すためになぜ薬品を盗んだ。企業でしっかり働いているお前なら買う金だってあっただろう」

「器物損害にはならない、そう弁護士の方は言っていた。最近ニュースにもなっていた、家の壁の落書きが朝起きたら綺麗に消されていた。驚きながらそうインタビューに答えていた人を、父さんも何人も見た。」

「ニュースにもなって、世間も面白がっているみたいだ、弁護士の方から聞いたが、テレビや記者の方がお前に話を聞きたいと」

「やめてくれ、そう伝えておいた。結局は一件の小さな窃盗罪として収まるらしい。テレビも騒ぎすぎだ。たかが万引きと落書きを消しただけで」

「ところで、お前が消した落書きの一つ、なんだったけ?父さんもニュースで知ったんだが」

「そういったことに父さんもあまり詳しくないが、なんだ、たかが誰かが書いた落書きだろう。場所もあんな人も滅多に行かないような場所で。えっと、なんだったかなぁ」

「あぁ、それね」

「バンクシー。バンクシーの作品だよ。」

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