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6 『みてくる女、見上げられない僕。』

最寄り駅のホームは閑散としていて、人の数もそんなに多くない。
僕はいつものように、駅前のロータリーのすぐ横にある、年間契約者専用の自転車置き場に年季の入っている銀のママチャリを停めると、東口の階段を昇り、ホームへと向かっていた。

平日の朝だというのに、僕の最寄り駅は、ガランとしている、そんな形容がぴたりと当てはまるほど静かで、そして空いている。

なぜかというと、この駅が始発駅であるからだ。
この一点だけは、自分の地元を自慢できる唯一の輝きだと思っている。
別にここが、どがつく田舎でもなければ、もともと人の乗車数が少ない電車な訳でもない。
都心まではこの電車に乗り40分ほどすれば着く。

乗車率200%!の超満員電車、とまではいかないが、ここから何駅か過ぎれば、すぐに席は埋まり、立てるスペースもなくなってくる。

つまり僕は、幸運な電車通学の星の元に生まれた、ラッキーな人間なのだ。
遡ると、僕と電車通いの日々は、ぼくが小学生の頃からだ。

右も左もわからないまま、自分がこれから何をしたいのかも定まっていない中、両親にされるがまま言われるがまま、小さい時から習い事やお勉強をしていた。

小学校受験では、運良く、はたまた、ぼくの知らず知らずの努力の甲斐あってか、都心の有名学校に入学できた。

あの頃から毎日、この電車を使っている。

乗り換えの心配もなく、最寄りの駅から座ってさえすれば、小学生でまだ小さかった僕でも、いつも降りる駅名のアナウンスを聞き、電光掲示板に表示される駅名をしっかり確認さえすれば、それほど苦労をした覚えはない。


それから、中学、高校とエスカレーター式に進んでいき、あい変わらず僕は同じようにこの電車を使い続け、最寄り駅からこの電車に乗る回数も、年齢に伴って増えていった。
そして、大学生となった今も、懲りずに、相変わらずこの電車を使っているのだ。

もう目を瞑って、始発から終電までの路線図すべてを諳んじることなんて簡単なことだ。
小学生の頃から、空をただ眺めるみたいに、暇を持て余していた僕は、斜め右上に常にいたそいつを、初めから順々に記憶していた。

こ気味良いドアの開閉音のメロディーは、耳にタコ、もう何万回聞いたことだろう。
それは時々、夢に出てくるほどであって、「降ります!」と、一人まだ夜が明けそうにないベッドの上で叫んだこともあった。


これだけを聞くと、幼い頃から電車通学なんて大変なことだねぇ、なんていう同情もしくは驚きの声を発しては、一つや二つ、トラブルや体験談なんかを聞きたい、そう目で訴えかけられることもあるのだが、僕は本当にそういったこととは無縁の通学ライフを送っていた。

いやぁ、実は僕の目の前で痴漢を目撃して、その犯人を見てみると近所の八百屋のおっちゃんで驚いた、被害に遭っている女の子を助けたら、「助けてくれてありがとうございます、あのお礼に今度お茶でもしませんか?」って誘われて、それでその子と付き合うことになって、実は今の彼女はまだその子なんだ。

なんてドラマチックなことを言ってみたいが、幸か不幸か本当に一つも無いのだ。


僕は今日も、いつもと変わらず、がらんとした車内に乗り込むと、一列丸々空いている選び放題の一席を選び座る。

そこは、ドアからもっとも近い席。

僕のすぐ右には肩が寄りかかれる仕切りみたいなものがあって、右斜め上前には電光掲示板が目的地を示してくれている。

ここが僕の席だ。

電車通学を始めた頃から、僕はこの席に座っている。幼かった頃の僕は、特に何も考えずに適当に座っていたのだろう、多分車内に入って一番近い席だからとかなんとか。

しかし、中学高校に上がっていく頃には、寄りかかれて安心感さえ感じるこの席以外、僕は座ることが無かった。
それは今となっても変わらず、僕の数少ないルーティンとなっている。

最寄り駅から、いつもの席に座り、大学へと向かっていた。
大学も結局、エスカレーター方式で、なんとか、無事に上がれることができた。
これで、この電車通学ライフは13年目となる。僕の人生の大半は、この電車に座り揺られながら生きてきたことになるのだ。

改札を抜けると、いきなりパンっ、とクラッカーが鳴り、駅員が飛び出してくる、

「おめでとうございまーす!本日でこの駅をご利用いただきまして15年、お客様にプレゼントがございます!」

とか、どこかの夢の国みたいに、あなたで来園者数ちょうどOOOO人目ですのような、そんなサプライズはないだろうか。

いつもこんなくだらないことを考えては、車内での通学時間を無駄にしている。

しかし、最近になってとうとう、僕にもエピソードトークになるような出来事が起きているように感じていた。

それは、大学生になってすぐ。
いつもの席に座り、時間を持て余すようにインスタグラムを適当に眺め、知らない人に、いいね!を押していたときだった。
僕の駅から4駅ほど言ったところで、女性が乗り込んできた。

4駅も進めば車内はだいぶ混んでくる、座る場所があれば良い方で、だいたい空いているスペースを見つけて立っている人の方が多い。

その女性は僕の右隣に、自らの立ち場所として選ぶと、僕が寄りかかっている仕切りに背を向けて、後ろに体重をかけ楽な体勢をしている。

僕は彼女の体重を右肩で感じ、少し押し返された気分になったが、お互い見向きもせず気になどならない。

僕は何も無かったように、また自分の携帯に興味を戻し、知らない人にいいねを押すという、空虚な時間に勤しんでいた。


なんだ。

そう感じたのは、その女性が僕の横に立ってから数分のことだった。
何か視線を感じる、そう思い、少しだけ目線を上げると、さっきの女性が向きを変えていた。

僕と横に並ぶようにして、手すりを左手で持ち、先ほどから左へ45度回転して、向かいのドアと正対するように立っている。

僕と彼女の今の身長差なら、彼女は僕の画面を覗くことができるはずだ。

彼女が実際に僕の携帯を盗み見しているかどうか、それはわからない。
ただ僕は、「なんだか視線を感じる」、そんな程度のことだから、わざわざ彼女に「ちょっと、盗み見しないでもらえますか!」なんて言う必要もない。し、僕にそんな勇気なんか微塵も無い。

今だって視線を感じるが、ちょろっと斜め上、掲示板を見るフリでもして、彼女を一瞥することすらできない。

手前のドアを利用して、彼女の反射している姿を捉えることすら、もし目でもあったらどうするんだ、そんな想像をすると怖くてできない。

そんな不安が小さいパニックを引き起こし、そのまま数駅進むと、おもむろに彼女がホームへと降りて行った。

僕の一つ前の駅だ。

僕の大学の最寄り駅は、他にも近くに何校か大学があり、学生街として賑わっているが、一つ手前、彼女が降りた駅も大学が数校立っており、学生の姿を見ることが多い場所だ。

顔や服装なんかも確認できなかったが、若い女性ではあったと思う。
この時間帯にあそこで降りるということは、彼女も大学生で、近くの大学に通っているのかもしれない。

とりあえず、一安心して、残りすくない車内時間を、また無利益な、いいねをひたすら与える作業に使った。

あの日の、あの視線を感じたような感覚は、本物だったのかもしれない。

あの日以来、僕はよく視線を感じるようになっていたし、そう思った時は大抵あの顔も名前も知らない彼女が僕の横に立っていた。
まだ、顔を見たことはない。いや、僕が彼女の方へ、見上げられないだけだなのだ。

彼女が横に来ると、なぜだか緊張が高まり、心臓の鼓動が聞こえてくる感じがする。冷や汗をかく、そんな気分だろうか。

もしかして痴漢に遭っている被害者の方は、こんな思いをしていたのだろうか。

声をあげたい、顔を確認して、鏡越しに目で犯人に威嚇して、その手を力強く、逃げられることないように握り締めた後、勢いよく言う。
「助けてください、このひと痴漢です!」

そんなことができる人は、極新空手かボクシング、めっぽう自分に自信があるか、強心臓の持ち主に違いない。

僕みたいな臆病者で、今までさほど女の子とも話したことがないような意気地なしに、そんなことする勇気なんて無い。

今日も、視線を携帯画面に向け、何も気づいていないかのように、いいねを押す。
視線はビンビンと感じる、それに伴って僕の首はどんどん曲がっていく、もはや首と背中が直角になるくらいに下を向いている。

あぁ、首が痛い。

背筋を伸ばして、さらに首もまっすぐに伸ばして、上を見たい。
そうは思うが、心とは裏腹に首の綺麗な直角はそのままを維持している。

次の日も彼女が隣にやってきた。
内心、「またかよ。」そう呟き、そして首を長く、直角の姿勢へと変える準備を整える。

しかし、今日の僕は違った。
なぜ僕がこんなビクビクとしなければいけないんだ。

僕は13年目を迎える、この電車通学のプロであり、もうすぐサプライズだってしてもらえる。

今日こそはそのお顔をしかと見ては、睨みの効いた鋭い目つきで威嚇してやる。

そうおもいながら、顔を上げる。

が、僕の意気地なし。
寸前で見上げるのやめてしまった。

いつもよりかは見上げている。しかし、顔を確認できるほどでもなく、ドア越しに映る彼女を確認できるほど目線も上がりきってはいない。

この横目で見えたのは、彼女の今日の服装。

白の無地っぽいTシャツに、深緑色のオシャレそうなサロペットを着ていた。
髪は少し茶色が混じったセミロングぐらいの長さで、毛先が少し巻いてある。
いかにもオシャレな大学生といった雰囲気だ。

なんだよ、同い年くらいか。
なぜ僕の携帯なんか覗くんだ。もっとこう、やることなんてこの年代の女の子ならたくさんあるだろう。

インスタに投稿するテキストを考えるなり、インスタでオシャレな女の子や、インスタグラマーの子の私服やレストランなんかをチェックして、週末の予定を立てるなり、とにかく忙しいはずだろう。僕の携帯なんか見ても、君のオシャレ度に変化はないはずだ。

心の中で、そう怒鳴り散らしたいような気持ちを抑えながら、また携帯に目をやり、はぁっと、小さなため息を一息つくと、また手元の携帯に視線を戻した。

服装を見るぐらいまでなら、なんとか見上げることができるようになってきた。

昨日は、花柄の爽やかな黄色のワンピース、髪色ととても合っていてお洒落であった。

おとといは、暗めのタータンチェックのシャツとショートパンツのセットアップ、その中の白Tシャツには、胸元にワンポイントで赤色の文字が踊っていた。

一週間前は、たしか薄手の黒のMA−1に黒のプリントTシャツ、大きめの青のデニム、そして紺のローカットコンバース、アメカジっぽくて僕の好きなやつだった。

こうして、彼女の服装だけを確認しては、顔は見られずに肩身の狭い、人生初めての通学ライフを送って、もう二週間が経っていた。

その日も彼女は僕の横に立っていた。

今日の服装は、白地に青のボーダーが入ったロンT、そして足元ではカーキのロングスカートが、ひらひらと舞っている、いつもよりはシンプルで、そして清楚な感じだろうか。


あと二駅、あと一駅、心の中でそう呟きながら、彼女がいつも降りる駅のカウントダウンをしていた。液晶画面が光る、手のひらに心地悪そうに収まっている携帯の画面は、いつのようにインスタだ。

そして、彼女の駅に停まる。

僕は、ふぅーーっと、電車のドアが開閉するときに放つ空気音みたいに、緊張の糸がやっと切れたかのように、息を吐いた。

やっと、彼女が降りてくれる。
これで、集中して自分の携帯と向き合える。

そんな安堵感に浸っていたが、彼女はその駅では降りなかった。

いつも、毎回のように降りていたその駅で彼女は降りなかった。平日の学生ならきっと授業があるだろう。
彼女はどこか違う場所へ行くのだろうか、そんな疑問を持ちつつも、一度解けた緊張がまた結び直され、先ほど以上に居心地悪い状況へと変わっていった。

なぜ、今日は降りないんだ。
ドアの開閉音が鳴り響き、そして電車は僕と彼女を乗せて進み出した。

昔から変わらない光景、それには違いないのだが、いつもいない彼女がいるだけで、その景色は全く別物に見え、生まれて初めて、この乗りつづけている電車に対して居心地の悪さを覚えた。

僕の大学の駅に電車が停まる。

僕はこの重々しい空気に耐え切れず、電車のドアが、プシューーと、開くなり一目散に、逃げるようにその電車を駆け足で降りた。

あぁ、最悪だ。なんで毎日毎日こんな思いを…

一日の初めからツイていない、大きなため息をつきながら、
今日のお昼は大学近くにある、年季の入った純喫茶でメロンクリームソーダにナポリタンを食べてやる、そう心に誓って改札へと向かおうとしたとき、

「すいませんっ」

後ろから声をがしたが、無視をする。きっと誰かが誰かに言っているのだろう。

すると、もう一度、

「すいません、あの、」

僕は自分の真後ろで声がして、ビクッと、体を震わせた。

僕に言っているのだ。声が出た方向、そしてその声が向かってくる方向が、紛れもなく僕だ、そう直感で感じた。

そして、僕は、そろりと、首だけを回して恐る恐る後ろを見てみると、
そこには、あの彼女がいた。

あの盗み見の彼女だ。

僕のこれまでの快適な通学ライフを壊し、長い間、居心地悪い思いをさせた彼女がそこにいた。

先ほど横目で見た通り、白地に青のボーダーが入ったロンT、そして足元ではカーキのロングスカートが、ひらひらと舞っている。
そして初めて彼女の顔を見た。

「可愛い。」

まずそう思った。
茶色のセミロング程あるその髪型が、小さなその小顔を隠すように、綺麗に巻かれていた。目はクリクリと大きく、アゴはシュッとしている。
可愛くなる顔のパーツの全て揃えて、生まれてきた、そんな見た目であった。
僕は声をかけられたのも忘れ、まじまじと彼女に見入っていたので、

「あの、すいません。急に声をかけて。」

あ、あ、いえそんな、と言葉にもなってないような反応をする。

「とれいんらいふさんですよね?」

僕は一瞬何を言われているのかわからず、その場で固まった。

そして数秒して、その言葉に気づく。

「train_life0412 」

僕のインスタで使っている名前だ。

なぜ、彼女が僕の、しかもインスタの名前を知っているのか、この場の状況が全く理解できないでいた。

彼女はまっすぐに僕を見つめ、そして少し顔を赤らめ両腕を右に左に動かしたりしていた。

大きな瞳で、その可愛い顔で見つめられた僕は、ドキッとし、そしてすぐに視線を下に向けながら言った。

「そうですけど、どうしてそれを…」

彼女もとうとう顔を真っ赤にして、そして目線を僕と同じように下に向けて、言った。

「いえ、その、私もインスタグラムをしていて、あの、それでぇ…」

モジモジとしながら、顔を真っ赤にしている彼女は本当に可愛らしい。

彼女はつづけて、こう言った。

「あの、わたしりりーがーるっていう名前でインスタしていて、それで…」

顔を真っ赤にしたままそう言った彼女は、視線を完全に地面に落として、手持ちぶさたな手をくねくねと遊ばせている。が、その白く透き通った指先や腕に、見惚れてしまう。

りりーがーる?彼女のインスタのなまえだろうか?

そしてすぐに、閃いた。

「Lily_girl」

僕がよく見ては、いいねを押していたインスタの名前だ。

彼女が、インスタの中にしかいないと思っていた、あの可愛らいしい彼女が、僕の前にいて、そして僕に声をかけてくれたのか。

先ほどの居心地の悪さとはまた別の、なんだかソワソワとした気持ちに襲われ、僕も急に顔が真っ赤になってくる。

「リリガールさん?
僕、あのよくインスタを見ています」

そのとき、あっと、小さな声がもれた。

彼女がインスタの中の本人なら、僕はその人のすぐ隣で、いいねを押してマジマジとその写真を眺めていたのか。

そう気がつくと、僕も急に体をくねらせモジモジしては、真っ赤であろう自分の顔を見て欲しくなく、地面に目線を送る。

「はい、あの知ってます。いいねを押してくださったことも、わたしのインスタをチェックしてくれていたことも」

「二週間前、わたしがたまたま立っていたら、見えたんです。わたしのインスタをチェックしてくれているところ、そして、わたしが前の日に投稿したモノに、いいねをくださったこと。
わたし、本当に驚いて、嬉しくて。それからあなたを見かけては、横から盗み見しちゃってました。」

「いけないことだとは思ってました、でも、本当に嬉しくて。
あっ、またわたしのインスタ見てくれてるって、
あっ、またいいねくれた、って。
それを見るのが嬉しくてつい何日も同じように…」

「本当にごめんさない、でも一度お礼を言いたくて、できれば話したくなって、それで今日話しかけようって思って…」

早口で、呼吸も忘れるぐらいに、そう言ってくれた彼女は、まだ顔を真っ赤にしながらも、その大きなふたつの可愛らしい目で、しっかりと僕を見つめていた。

膝元で両手を固く握って、華奢な体型の彼女がそう、必死に紡いでくれたその言葉は、守ってあげたい、そう思わせるぐらい可憐で儚い雰囲気があった。

今思い返せば、彼女の顔を見た最初から、どこか既視感を覚えていた。
メイクや少しの加工はあるだろうが、あのクリクリとした大きな目に、左右対称キレイに収まっている鼻と小さな口や、綺麗な色をしている茶色の髪。
僕が前から見ていた、あのインスタの彼女だった。

服装もそうだ。きっとその日、学校に来ていった服で写真を撮っていたのだろう。
どこかで見たことがある服装、記憶にはあったが、それが誰で、どこか、までは正確に思い出せない。

花柄の爽やかな黄色のワンピース。

暗めのタータンチェックのシャツとショートパンツのセットアップ、その中の白Tシャツには、胸元にワンポイントで赤色の文字があって。

薄手の黒のMA−1に黒のプリントTシャツ、大きめの青のデニム、そして紺のローカットコンバース、アメカジっぽくて僕の好きなやつ…

全て僕がインスタで見ていたもの、彼女の目の前で、見ていたやつだ。

彼女を横目で確認し、おぼろげながら、その服の特徴を捉えた翌日、僕はインスタで全身コーデを隅から隅まで、そしてそれを本人の前でマジマジと確認していた。昨日、その服装をしていた本人を見かけていたのに…

恥ずかしい、恥ずかしすぎる。暇を持て余していたとしても、いい年した大学生が、同年代の女子のインスタにいいねを押すことに夢中になっているなんて。
しかも本人を目の前にして。きっと鼻の下でも伸ばしていたのだろう。

「あ、いえ、僕も全然気づかなくて。
そんな本人を目の前にして、すぐ隣で見ていたなんて、あの、なんかすいません」

なぜ謝ったのか、それは僕にもわからなかったが、とりあえず口から出た言葉が、それであった。

二人の視線が一度交錯し、そして一瞬目が合う。
可愛らしい彼女の姿が、僕の視界いっぱいに入り、僕は口をつぐみ呼吸するのを忘れた。


心臓の音が高鳴っている。


体が熱い。


落ち着きを取り戻したようにも見える彼女が、言った。

「あのもしよろしければ、この後お茶でも行きませんか?
あっ、もしこのあと特に用事がなければ…」

一瞬、耳を疑った。

彼女のその細く透き通ったような白さ、華奢な輪郭が、僕の視界のなかで崩れる感じがして、僕も前に倒れそうになり、足元に力を入れて踏ん張り、そして言う。

「僕の大学の近所に、喫茶店があるんですけど、もしよければどうですか?」

「ちょうど、これから行こうとしていたんですけど」


心臓の音がうるさすぎて、自分が何を言っているのか聞こえない。

きっと真っ赤な顔をしている僕を、そんな綺麗な目で見ないでほしい。


平静を装っているが、僕は今の状況をまだ理解できていない。

なぜこうなった。

僕は今までろくに女の人と会話したこともないのに、そんな僕がなぜ、
喫茶店に行きませんか。などとナンパまがいのことをしているんだ。

おかしい、何かがおかしい。これはどこか別の星の物語であって、もしくは夢の中の空想かなんかで、僕はそろそろ起き上がるのだろう。

あぁ、夢か。
そんなことをぽろっと吐いて、悲しそうに、でも本当であっても僕には対処しきれないと諦め、いつもように同じ電車の同じ席に座るんだ。



「はい、ぜひ!」

弾んだ声と同時に、その可愛らしい顔がほころんで、そしてそれ以上に可愛らしい笑顔で、彼女は僕にそう答えた。

一瞬の出来事であった。

僕も自然と、今までしたことのないような笑顔を漏らしていた。



僕の長年の電車通学ライフ。


やっと、一つ話せそうなことが起こったのかもしれない。


「その彼女は、今のお嫁さんなんだ。」って。


       〜 続く 〜

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