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「世話焼きばっぱ」は、おせっかいだから、人を救えた? 宮本常一「忘れられた日本人/寄り合い(2)」 <ことばの森を逍遥する>

いまのようにマスメディアやインターネットなどが発達する以前の社会は、いったいどういう在り様だったのでしょうか?わたしたちは、これを想像することが、すでに難しくなっています。いわゆる村社会(古い社会)というのは、相互干渉が強く、閉鎖的で、個人の自由を許さない、そういうステロタイプなイメージによって否定的に捉えることに慣らされてきたように思います。でも都市化された環境に育ったわたしたちは、実際にそういうものを自分で体験したことはありません。

宮本常一の書いたものを読んでいると、わたしたちは古い社会の在り様について、かなり大きな誤解をしているのではないかという気がしてきます。この誤解の原因はいろいろあると思いますが、ひとつには明治以降の近代化教育、戦後の民主主義教育に責任があるのかもしれません。とにかく旧社会は、風習や習慣をはじめ、社会構造そのものが旧弊で間違っており、西欧から輸入してきた近代合理主義的なものこそが正しいのだと、こどものころから教え込まれてきたからです。

たとえば、「寄り合い(2)」のなかに、こんな記述が出てきます。

『村の中にあってはやや安定した生活をしていて、物わかりのよい年よりが大てい世話焼きをしている。村の中にある何も彼もを実によく知っていて、たえず村の中の不幸なものに手をさしのべているのである。それも決して人の気づかぬところでそれをやっている。・・・そういうのを福島あたりで「世話焼きばっぱ」と呼んだそうだ。』

『他人の非をあばくことは容易だが、あばいた後、村の中の人間関係は非を持つ人が悔悟するだけでは解決しきれない問題が含まれている。したがってそれをどう処理するかはなかなかむずかしいことで、女たちは女たち同士で解決の方法を講じたのである。』

『自分の非を隠蔽しながら他人の非を責め立てることは、人間関係の破壊しか生まない。明らかな非のある者は、他人の隠された非を暴くことも難しい。あるいは、相互に非を暴き合うことも、なんら解決の方向へはいかない。』

「世話焼きばっぱ」は地方的な呼び名ですが、全国どこの土地でも、そういう役割を担うひとたちが居たのではないかと思われます。かつては人生経験の豊かな調整役のような人のことを、“酸いも甘いも噛み分けた”という言い方をしていました。また、政治家などに対しては、“清濁併せ呑む”というような表現も使われたものです。人間というのは、たぶん100%の善人も100%の悪人もありません。人間のもっている悪に必要以上に拘っていると、何も前へ進まなくなってしまうので、個々の善悪の問題だけに拘泥せずに、長い目で全体を見て上手く調整することが大事だというような意味でしょう。

最近では、あまりこういう言い方は聞かれなくなりました。マスメディアなどを中心に、なにかと小悪をあげつらい、「悪は悪だからダメだ」と言い募る傾向が強くなりました。政治家はもとより、企業人でも文化人でも芸能人でも、世の表舞台に立つ人たちは、だれでも清廉潔白でなければいけないと信じられているかのようです。「そうはいっても、人間なんだから、多少の悪は抱えているでしょう・・・」というようなことを言おうものなら、オマエは悪に加担するのか?といって干されるハメになります。

「世間師」の項でも触れましたが、世間知に優れた人というのは、弱者にやさしくあるべきですし、弱者を切り捨てない方向へと調整できる必要があります。そういう人は、かつてはたくさん居たけれど、いまはまるで居なくなったというと、それは事実ではないと思います。昔も、今も、そういう人は一定数いるはずです。けれども、いまは個人とマスの二極化が進んだ時代なので、村的なちいさな社会の中で、そういう人が十分に役割を果たす余地が少なくなってしまったのではないかと思えます。

さて一方で、村的な社会の特徴として、宮本は、こんなふうな記述もしています。

『狭い人間関係の中で、カタルシスを得るためには、ハレの時間が必要だろう。あるいはケの時間の中に、秘密を宿すこともあるだろう。』

ハレの時間、祭りの夜などには性関係はとても開放的になるけれども、ケの時間、日常的には性関係は秘匿されることが多かっただろうということでしょう。

『若い男女の性関係は今よりもルーズであったと思われるが、それが婚姻生活までもながく尾を引くことがあって、女一人でさばききれなくなると、世話焼きばっぱのたすけを借らねばならぬことが多かったのである。』

若いものたちの性関係が、現在よりも自由であったという見方は、夜這いが当たり前であったという話によっても推測されることです。これは女性の人権という視点から見れば、女性が一方的に性の対象として見られるのが、現在から見れば差別的だともとれますが、もしかしたら女性のほうが現在よりもっとしたたかで、おめでたい男どもを虜にしたようなこともあったのではないかと思えます。

また、これは今も昔も変わらないのでしょうが、性関係あるいはこれにまつわる人間関係が、自由の範囲内で展開されているあいだはよいけれども、いったん拗れはじめると、悲惨な方向へ向かうことはあったでしょう。

『・・・村では、五寸クギを多数打ち込んだ呪の藁人形の残骸が見つかることがある。決定的に関係がこじれて深刻な状態になると、呪いのような手段に至ることもあったのだろう。』

しかし、村社会では、呪い人形で済んでいたことが、都市化された現在の社会では、DVやストーカー事件に象徴されるように、性的な関係の縺れや、一方的な思い込みが、暴力や殺害にまで至ってしまうことが増えたのかもしれません。

また、宮本は、老女があつまって飲食しながら話をする観音講のようなものにも触れています。

『「つまり嫁の悪口を言う講よの」と一人がまぜかえすようにいった。しかしすぐそれを訂正するように別の一人が、年よりは愚痴の多いもので、つい嫁の悪口がいいたくなる。そこでこうした所ではなしあうのだが、そうすれば面と向かって嫁に辛くあたらなくてもすむという。』

『ところがその悪口をみんなが村中へまき散らしたらたまったもんではないかときくと、そういうことはせん。わしらも嫁であった時があるが、姑が自分の悪口をいったのを他人から告げ口されたことはないという。』

狭い村のなかで生きていくためには、それなりの倫理があり、ルールがあったということでしょう。それを窮屈だと感じてしまうのは、都市化された生活に慣れた者たちの偏見なのかもしれません。

『村の中で解決のつかない時には村の外へ出してやることが一番いい解決方法であった。こういう世話役は人の行為を単に善悪のみでみるのではなく、人間性の上にたち、人間と人間との関係を大切に見ていく者でなければならない。』

拗れた人間関係をほぐす方法があるとしたら、白黒決着をつけようと躍起になる当人たちに、第三者が割って入って宥めすかし、相互に距離を置くようにさせるしかないはずです。人間関係が拗れる原因は、自分の思い通りにならない他者に対して自分を押し付け、さも他者が悪いように決めつけて自己正当化を図ろうとすることにあります。他者が自分の思い通りにならないのは当たりまえで、他者に罪はないと考えるべきなのですが、相互にこのスパイラルに入ってしまうと、当人たちの努力でここから抜け出すのは困難です。

現在の社会では、第三者が割って入るということは、ほとんど見られなくなったのでしょう。ストーカー事件などにおいて、よく警察へは相談したけれど対応が不十分で・・・などと報道されます。結果として殺害などに至った場合、あたかも警察の対応に問題があったかのように言われます。けれども、警察にしろ他の役所にしろ、公の組織がこういう問題に介入することに限界があるのは明らかです。

もちろん昔の社会に逆戻りすることは不可能ですから、現在のとりあえずの対処としては、公共機関がある程度の役割を果たすことが必要なことは事実です。でも、だからといって、公共機関が完璧な役割を果たせるように努力すべきだというのでは、方向がまちがっているのではないかと思います。これからあるべき未来の社会を考えるにあたっては、もっと別の視点を導入しないといけないのではないかと思えます。

近代化は、物質的に社会を豊かにしたことは確かです。けれども社会を、個人と公共に分断して、中間的なコミュニティを解体したことも確かです。いまも個人化へと傾斜していく波はとまっていません。けれども公共による個のフォローは、すでに限界が見えています。このままでは、個と公共の分断(矛盾)は、けっきょくのところ、すべてが社会的弱者へと皺寄せがいくほかありません。かつての村社会とはちがう新たなコミュニティ、あるいはちょうどいい人間的サイズのコミュニティ、そういうものの可能性はいったいどこにあるのか?それが大きな現在の課題のように思います。すくなくとも個人主義や国家主義のなかには、その答えはないだろうと思えます。

※『 』内は岩波文庫版よりの引用ですが、必ずしも原文どおりではありません。


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