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近代化の功罪を照らし出す、美しい稀有な物語 石牟礼道子「あやとりの記」(1) <ことばの森を逍遥する>


大阪府守口市 1984年ころ


『かっし、かっし、かっし・・・、かっし、かっし、かっし・・・。
柔らかい蹄の音でした。舞い散る雪でできたトンネル、おぼろにかかった雪の洞(ほら)の中を、馬がやってくるのでした。音もないはげしい雪の中に、そんな巨(おお)きな雪の洞がかかっているのはとても不思議なことでした。』

石牟礼さんの「あやとりの記」は、こういう書き出しではじまっています。こどもを対象とする雑誌に連載されたらしく、童話やお伽噺などを意識してのことでしょう、難かしい漢語を避け平易なことばで幻想的な世界を描き出しています。もちろん宮沢賢治などの場合と同様、書かれている内容が平易だということとはちがいます。こども向けという制約があることによってかえって、前近代に由来する自然と人間が交感する不思議な世界を、鮮やかなイメージとして定着することに成功しているようにみえます。

主人公として登場する3~5歳の女の子「みっちん」は、石牟礼さんの幼少期をモデルとしているのでしょうが、もちろんお話は体験をもとにした創作だと思われます。登場するのは、盲で狂人の祖母おもかさま、萩麿(はぎまろ)という馬と共に暮らす片足の老人仙造やん、山の中の火葬場で死人を焼く岩殿(いわどん)、孤児で不器用な片目の大男ヒロム兄(あん)やん、仔犬を懐に入れ乞食をして暮らす犬の仔せっちゃん、彼岸からやって来るぽんぽんしゃら殿、そして山の神や川の神、竜神さまや森の精、また狐や狸や猿などの生き物たち、こちら側の世界と向こう側の世界を行き来する、“印(しるし)付き”の者たちが織り成す豊かな世界が描かれます。

『馬車が行ってしまうと、辺りに、なにか、えもいわれずよい香りが漂っています。よく見ると、蹄の跡のくぼみに、雪女郎の簪のような、ほの青い蘭の蕾が一輪落ちていました。香りは、その蕾から広がっているらしいのです。』

萩麿という馬に引かせた馬車に乗っている仙造やんは、山から蘭などの珍しいものを採取することで生きている老人です。山の自然にはたいへんよく精通していて、まちの人々にはあちら側の世界と行き来ができる特別な人に見えています。もちろんその見方の裏側には、ふつう(カタギ)の人ではないという差別のようなものがあることも否めないのだとは思います。みっちんは、そういう印付きのものたちと感応することができる、ちょっと変わったこどもとして、いわばイノセントな存在として物語に登場します。

『「よーい、みっちんよーい、何処におるかにゃあ」
めくらのおもかさま、みっちんの祖母さまが、彼方にともる灯りを探すように手をさしのべながら、そろそろと足探りしてきます。』

『めくらさまが、しゃがれた鈴のような声で笑って、耳元に囁(ささや)きます。
「ここは、八千万億(はっせんまんのく)、那由他劫(なゆたごう)の世界ばえ」
「ふーん、はっせんまんのく、泣いたの子ぅ」』

おもかさまは、みっちんの祖母ですが、盲目であり、いわゆる狂人でもあり、むこう側の世界と往き来のできるとくべつな存在として描かれています。みっちんは、そのおもかさまにいろいろなことを教わると同時に、おもかさまを守らねばならない役割でもあり、そのことによってむこう側の世界との親和性を高めていくようにみえます。

作中、いろいろなところで「あの衆(し)たち」と呼ばれるものたちが登場します。森や野原などの人気のないとくべつな場所に居合わせると、賑わいとしての気配や、ささやく声や、囃し立てるざわめきの音や、ときにははっきりとした唄の文句や、自然のなかで起こる幻覚とも異界への通路ともつかぬような現象があらわれ、それらを引き起こすものたちが「あの衆(し)たち」と呼ばれます。彼らはじっさいに何者か、明示されることはありませんが、むこう側の世界の住人、あるいはむこう側とこちら側を往き来のできるものたちのことだと暗示されます。

むこう側とは、いったい何でしょうか?神や仏、魑魅魍魎や妖怪、霊魂や精霊、狐や狸、狂人や童子、境界のむこう側にあるものたち、あるいは境界を往き来するものたち、そういうものたちが人間の世界と接点をもつところ、それがむこう側として象徴される世界なのでしょう。けれどもまた、それは合理的に説明しようとしてしまうと、それこそむこう側へ消え去ってしまうような世界のことです。

『春もすぎて梅雨前になると、点々とつづいている薮くらのまわりの野苺は、真っ赤のがあったり黄色のがあったりして、そこらじゅうに甘い匂いを放っておりました。それは、川筋のぐるりに棲んでいるものたち、鳥や鼠や兎や狐や、狸や猿や蝶や蟻たちのたのしみなのでした。もちろん、牛馬や人間たちも、それを分けてもらえるのです。』

『・・・みんなで分けて戴くとじゃけん、今日は、これだけ戴きます、そういうて戴くものぞ。ひとりで我占めて、後も残らんように採ってはならん。』

ここには大切な認識が語られています。山のものでも海のものでも、自然から採集してくるものはすべて、自然界のあらゆる生き物たちと共有している財産ですから、人間のエゴで採りつくしてしまうようなことをしてはいけないということです。このような感じ方が、いったいいつごろの時代まで、あるいはどんな場所で、どんな人々に共有されていたかは、よくわかりません。ただすくなくとも近代の文明が、そういう素朴かつ普遍的な倫理を、いつしかこの世から駆逐してしまったことはたしかでしょう。

『またあのつよい香りが漂ってきてみっちんは、魂がふわっとするような気がしました。おもかさまはみっちんを片手で抱いたまま、猫柳の杖をかき寄せ、西の方にむかってお辞儀をしながら呟きました。
「去(い)ってしまわいたにゃあ」
ほんにそのとき、あの賑いが嘘のように、ぱたっと消えていたのです。世界がそのとき急に、ぐんぐんひろがってゆき、そこに立っているのが恐ろしいほど、自分が小さく頼りなく感ぜられました。あの雪の洞もなくなってしまっていたのです。途方にくれるとはこういうことでしょうか。
「ばばしゃま」
「あい」
「お客人の去(い)たてしまわいたなあ」
「ほんに・・・去(い)たてしまわいた」』

むこう側のものたち(客人)は、人間の世界と接触をしつつも、そこへ入り込んでしまうことはなく、しかるべき距離をきちんと保つことで、この世界の流動性のようなもの、あるいは可塑性のようなものを維持するのです。いわば人間と自然の本来あるべき関係、付かず離れず、含み含まれ、同化も敵対もしないような関係、この作品に描かれているむこう側とこちら側の世界のつながりの在り様は、長い時間のなかでそういうふうに形成されてきただろう人間の知恵を宿しているような気がします。

いわゆる近代の人間主義は、人間を主体として内側から捉える思想を確立し、主体としての人間のあるべき姿を人権や自由というような概念へ昇華させてきました。もちろんこれは、偉大な功績といって間違いないでしょう。しかし同時に近代の思想は、科学主義や合理主義をベースとする考え方に偏向しすぎるきらいがあり、それが資本主義という際限のない欲望増殖装置とセットになって、本来あるべき自然と人間の関係を見えなくしてしまったのではないかと思えます。人間が自然を超越した特別な存在であるかのように見なしてしまったことで、本来は畏怖すべき偉大な存在である自然を、あたかもコントロール可能な対象の位置へと矮小化してしまったといえます。

※『 』内の引用文は、こども向けの原著にあるルビを適宜省略しました。


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