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人間は、ことばの、主人か?それとも、奴隷か?「現代という時代の気質」エリック・ホッファー(柄谷行人訳) Ⅱ <ことばの森を逍遥する>

『神は世界を創造したとき、ただちにそれをオートメ化したので、神がすることは何も残らなくなってしまった。そこで退屈のあまり神は手を加えたり、実験したりしはじめた。人間は手に負えない実験作であった。神が人間を創造したのは大胆な気分になっているときであった。「神の姿に似せて神は人間を創った」のだが、こうしてつくられた被造物が創造主と張りあい、それを凌駕するということは、最初からわかりきった結論であった。』

アイロニカルな物言いですけれども、聖書を読むとだれでも疑問に思うようなことに言及しています。もし神が全能であるとするなら、神が人間をつくったとき、悪に誘惑されないようにつくればよかったではいか?もし人間が原罪を背負うべき失敗作だとするなら、それは神が全能ではないことの証拠ではないか?そういう疑問を普通はもつと思います。ホッファーは、神は退屈のあまり、イタズラ心を起こして、人間を失敗作にしてしまったのだといいます。それで人間は堕落したわけですが、でも人間は神に似せてつくられたわけですから、能力的には神と同等であって、いずれ神と抗争し神を超えるのは当然の帰結だろうというのです。

『創世記の最初の数章は、神が心配はしているがまさかと思っていることをあきらかにしている。人間が知恵の樹の実を食べた瞬間、神は最悪の懸念が現実になったのを確認した。神は人間をエデンから追放し、おまけに呪いまでかけたのである。』

自分がしたイタズラの結果、人間たちがロクなことをしないので、神は謀反人ども(人間)を楽園から追放したわけです。しかし、謀反人は追放されても諦めるということはしないのです。生きるための糧を得るために労苦(労働)を強いられるようになりましたが、自らが地上の創造主になることを強く決意したのです。そして人間は、天に向けてバベルの塔を建設しはじめます。

『「彼らはこんなことをはじめた。今となっては彼らがしようと思い描いたことを何ひとつ制止することはできまい」そこで神は彼らの言葉をかき乱し、地表にあまねくばらまいてしまった。それからわずか六千年ののち、近代の西洋はバベルの塔の建設者たちが手放したものをとり上げたのである。』

神がことばを通じなくさせたので、人間はしばらくのあいだ意気阻喪していたのですけれど、近代西欧の産業革命を機に、ふたたびバベルの塔よろしく、人間は神を凌駕する試みに邁進しはじめたというのです。けれども、それはファラリスの雄牛の再現だとホッファーはいいます。

ファラリスの雄牛とは、古代ギリシャの伝説にある拷問装置で、金属製の大きな牛に罪人を閉じ込め、下から火であぶって焼き殺すものです。口に笛がついているので、罪人の断末魔の叫びが、やわらかなメロディのように聞こえる構造なのだそうです。そんな残酷なものを考案したという罪で、王は、この装置を作った者を、まず最初に装置の犠牲にしたという話です。

産業革命によってはじまった機械の時代は、自ら作ったファラリスの雄牛を歌わせるために、人間が人間自身を、自ら工場や炭鉱などの機械のなかへと幽閉してしまった、そいういう比喩として語っています。人間というものは、神に与えられた自然環境に満足することができずに、自分で人工的な環境をつくりあげるわけです。暑さ寒さはじめ、さまざまな自然の脅威を克服するという意味では、人工的環境はプラスの価値をもっています。しかし、人工の環境をつくるという事業は、個人の力では到底成しえないことですから、必然的に集団の力を結集する仕組みをつくらねばならず、そのためには権力装置が必要になるのです。人間は、自らがつくった権力装置に幽閉されてしまい、しばしばそれによって苦しめられ、場合によっては、それに殺戮される運命にもあるわけです。

『権力というものはつねに人間の本性、つまり人間という変数を行動の方程式から消去してしまおうという衝動を帯びている。独裁者はそれをテロルあるいは盲目的信念の教育によって実行する。軍隊は厳しい規律によってそれをおこなう。そして生産業者はオートメーションによってそれができると思っている。』

いつも権力というものは、人間を顔のないマッスとして捉え、人間のひとり一人の個性や実存などを無視してしまうものです。独裁制の場合には、権力と権力者(個人)は同期してしいますが、それが権力の普遍的形態というわけではなく、現在の民主制のようなものは、いわば顔のない権力だということができます。かつてチャップリンが揶揄したように、非個性化を推し進めるオートメーション工場は、この権力形態の目に見える比喩とみなすことも可能です。ホッファーが生きていたのは、まさに世界中がどんどん工業化されてゆくかに見えた時代でした。

『真相は、過去百年間の熱狂的な突進がわれわれを息切れさせてしまった、ということなのである。われわれには唾をのみこむいとまもなかった。われわれは、オートメ化した機械がわれわれを解放しにやって来て、エデンへ戻る道を示しているのだということ、そしてそれがいかなる革命も、教義も、祈りも、約束もなしえなかったことをわれわれのためにしてくれるだろうということを知っている。』

機械化・産業化した社会は、生産力の上昇とともに、いつの日か人間を労働から解放し、ついに神を凌駕して、人間が世界の主人になることを実現する、それは西欧近代の見果てぬ夢のようなものだと彼は捉えたわけです。ホッファーが、そんなことを信じていたというよりも、人間というものにたいするリアルな認識だと思います。ホッファーは、自然に還れ!というエコロジー思想を手厳しく批判しており、神を怖れない傲慢さは人間の本性だから、まずはそれを認めるべきだと言っているようにみえます。

『「文人」として説得の技術にたけているはずの知識人は、政治においてひとたび権力を握るとこの技術を発揮することを拒否する。彼は説得ではなくて命令がしたいのだ。』

これも政治についての、リアルな認識の表明だと考えられます。どんな文人であっても、ひとたび政治家になってしまうと、理知ではなく力関係の世界へ入り込まざるを得ないということでしょう。理知による説得で政治を動かすことはできず、情動の力よって、あるいは金力や暴力によって、いわば命令によって人間を牛耳ることは、政治力のキホンだといっていいのでしょう。

『ルターは植民地の革命家だったのだ。「イタリア人から見るとわれわれドイツ人は豚なのだ。彼らは山師さながらにわれわれを搾取し、この国を骨の髄までしゃぶりつくしてしまう。ドイツ人よ、目覚めよ!」とルターは叫んだ。カソリック教会のヒエラルキーが知識人から成っていたことは知っていたが、私はそのときはそれが知識人による植民地主義の一例だとは思いいたらなかった。』

中世は、ローマ教会を頂点とするカソリックのヒエラルキーが、広くヨーロッパ世界を覆っていた時代です。ルターの宗教改革は、強大な力を持って形式化・形骸化してしまったローマ教会への異議申し立てであったことはもちろんでしょうが、当時は後進地であったドイツが、先進地たるイタリア(ローマ)の植民地的搾取に抵抗する意味があったと言っているのは面白い視点だと思います。たんに宗教の問題ではなかっただろうというのは、その通りではないかと思います。

『われわれには、知識人による支配・・・共産主義国のインテリゲンツィア、新興国の土着知識人、ポルトガルの教授たち、いずれによる場合でも・・・が植民地統治に近づかざるをえないことがわかるのだ。これは国内で生じる植民地主義である。』

支配/被支配という非対称な関係は、たんに暴力によって決まるわけではなくて、むしろ知識にもとづくヒエラルキーのほうが根が深いとホッファーは考えているようです。たとえば戦争は、腕力と腕力の戦いあるいはその延長のように見えますけれども、近代兵器を駆使した現代の戦争は、けっきょく知識および財力の勝負です。アジアやアフリカはじめ、いわゆる非西欧世界は、西欧による知識の先進性によって、経済的に植民地化されたわけです。いちおう現在は国家主権をもち、政治的には解放されたかのようにみえてはいます。けれども、欧米との地域格差は相変わらず固定されたままです。さらにまた知識の非対称性は、国や地域のあいだの対立というだけではなく、もっと違う形態としても顕在化されるようになったというのです。同じ国の中でも、知識(富)を独占する階層と搾取される階層との非対称は、解消されるどころか、どんどん大きくなるのではないかと危惧しているようです。

『権力者たる知識人は師団とか戦艦とか爆撃機、ミサイルのような単純な言語しか理解しないようである。彼は鉄の決意に対してはきわめて敏感な嗅覚をもっている。抑圧された者のためにいつでも喜んで命を捧げるという知識人がシニシズムと大嘘でできている信仰箇条をつくりだすとは、五十年前には誰が夢見ただろう。権力が他のどんなタイプの人間よりも理想主義的知識人を堕落させるなどとは、誰が思っただろう。』

これもシニカルな物言いですが、現代世界の権力のあり様、その知識と暴力性の矛盾や齟齬をよく言い当てている気がします。おそらく古典的な時代には、統治権力の質は、指導者が優れているかどうかに左右されたのでしょうが、現在の体制では、どんな知識人であろうが権力の首長になってしまうと、国家という暴力装置に取り付けられた傀儡となるほか術がなく、むしろ知識などあればあるほど開き直りの自己正当化が上手になるにすぎないのだ、そういうようなことを言っていると思います。現在のいろいろな政治家などを見ていても、かつての帝王学などとはまるで無縁にみえますから、なるほどと膝を打つところがあると思います。

『もしヒトラーが偉大な画家か建築家の才能をもっていたら、レーニンやスターリンが偉大な理論家の素質をもっていたら、ナポレオンやムッソリーニが偉大な詩人か哲学者になる能力をそなえていたら、彼らは権力に対する満たされぬ飢えを育てなかったかもしれない。』

どんな知識人も権力の座につくと堕落してしまう、逆に言えば、権力の座につくような輩は、たとえ知識はあっても、どうせまがい物の知識人であり、そうでなければ権力への欲望など持たないはずだということでしょう。ホッファーは、口先でキレイごとを言いつつ、その裏で汚いことをするような連中、知識人たる権力者の偽善性を心から憎んでいるようです。彼は知識(人)を罵倒し憎んでいるように見えますが、彼が罵倒し憎むほんとうの対象は、知識(人)そのものというよりも、知識と権力の馴れ合いのようなものなのだろうと読めます。

『知識人は高賃金というものを信じていない。富裕は人心を腐敗させる、と彼は思っているのだ。彼は人民を汚れた金のためにではなく、聖なる大義のため、祖国のため、栄光や名誉や未来のために働かせたいのである。彼らをただ言葉のために働かせることによって気高くしてやりたいのである。』

支配側にいる知識人は、自分たちは傷つかない安全な場所にいて、社会の富を独占する状態を維持するために、庶民に対しては国家の栄光や大儀などというご立派な観念を吹き込み、国に貢献することは誇りであるという感情を植え付けて、彼らを低賃金で働かせ、戦争に駆り立て、ついには死地へと追いやるのです。

『知識人の支配層(エリート)は主として自国の人民を恐れており、しかもそれを認めることができない。そこで彼らは世界全体を恐れるようになるのだ。そして権力が大きな恐怖と裏腹になっているとき、それは敵意に満ちたものとなるのである。』

権力の座にある知的エリートが、目に見えない大きな力を怖れている、つまり無意識のうちに民衆を怖れているという指摘は、権力の在り様についてある種の普遍性を捉えているのではないかと思います。ただ、権力の座にいる者たちといえども、実はふつうの小心な人間にすぎないので、その自らの恐怖を素直に認めることはむずかしく、その恐怖が大きければ大きいほど、居丈高になったり傲慢になったり強権的になったり、果ては残忍な振舞いをも辞さない結果になってしまうのでしょう。

『権力による知識人の腐敗のもうひとつの源泉は、いかに強力になろうとも彼らは依然として弱者という武器を利用しつづけるという点にある。ヒトラー、スターリン、毛沢東などが、権力の頂点にあってさえ、自分自身が「一団の貧しい人々」の指導者、抑圧された民族か迫害された少数者の指導者ででもあるかのような言動をしがちなのは興味ぶかい。』

これも人間の心理の綾を、よく捉えていると思います。強権的な権力者ほど、自分は弱者のために権力を行使しているのだという自己正当化にこだわるのかもしれません。それは、わざと嘘を言うというのではなしに、本人自身ほんとうに「それが正しい」と信じられることが大切なのでしょう。人間は、悪を為すと自覚しつつ悪を為すことは難しく、自らが悪であると認めてしまったら、強硬な姿勢は崩れてしまいます。自分は正しいと信じられる為政者こそ、どんな残虐なことでも平気で成し遂げるのでしょう。

『権力をにぎった知識人における反人間性は、たんに彼の非人間性の一機能にとどまらない。なるほど知識人のエリートは他のどのエリートよりも人類や国家への奉仕を誓っている。が、人間を天使に変えることを望む救済者は、人間を奴隷や動物に変えようと望む人非人に劣らず、人間の本性を憎むことになるのだ。』

正しいことを成し遂げるために権力を行使していると自覚する知識人は、その正しさに疑いを差しはさむ者たちを、不徹底でいい加減で不正義な連中だと決めつけ、憎悪の対象として粛清してしまう例は枚挙に暇がないだろうと思います。

『しかし、ヒトラーとナチズムを生むには「哲学好きの国民性」が必要であり、スターリン治下のソ連では教授、作家、芸術家、科学者は甘やかされ大事にされた貴族階級だったという事実をなお理解しなければならない。(中略)スターリン崇拝は知識人のしわざであった。』

ナチズムやスターリニズムは、無知蒙昧な大衆によって支えられたとは言い切れず、むしろ権力側に巣食う知的なエリートたちによって称揚されていたわけです。知識人は、権力者と同じ正当性をわかちあうこと、および権力者によって与えられた特権を享受することによって、権力のヒエラルキーを強固に維持することに貢献するのです。

『一世紀以上も前にはじまった知識人と中産階級の冷戦は、二十世紀にはいよいよ拡大し、最近ではどうやら知識人に勝ち目が出てきたようである。世界の多くの地で、知識人は今まさに支配者、立法者、警察官、軍事指導者、大企業家として舞台の中央に立っている。』

マハトマ・ガンジーは「教育ある者の心のかたさ」を問題視していましたが、残念ながら知識を獲得することと、心を柔軟にすることとは、あまりリンクはしないようです。どうしてそうなのか?は、簡単には解けませんけれども、エリートの心が固いのは、競争心やプライドや特権など、エリート独特の社会的利害が関係しているのかもしれません。

『知識人は傾聴してもらいたいのである。彼は教えたいのであり、重視されたいのである。知識人にとっては、自由であるよりも、重視されることの方が大切なのである。』

知的なエリートというものは、たしかに自分に対するリスペクトを必要以上に要求し、軽視されたりバカにされたりすることを恐れる傾向があるかもしれません。さすがに知識人すべてがそうだということはないでしょうが、すくなくとも権力の中枢に近づくような人たちは知的能力とともに上昇志向が強くプライドも高いでしょうから、承認欲求の強さや特権を奪われることへの恐怖などが、権力志向を生み出すということは実際にあるでしょう。

訳者である柄谷行人が、あとがきにこう書いています。『ホッファーの知識人批判はあらまし右のようなものである。「知識人の時代」とは、「言葉がすべてである時代」である。《人々は、他の何のためよりも言葉のために、たやすく闘い且つ死ぬ》。知識人の指導者がまきちらすのはいつも「山を動かす」言葉、言葉である。』

ホッファーは現代を「知識人の時代」と規定して、権力批判=知識人批判をしています。ふつう現代は「大衆の時代」といわれることのほうが多いと思いますが、いっけん逆のことのようで、けっきょく近代以降の世界というのは、言葉が支配的になった世の中という意味では共通の現象を指しているように思えます。教育の普及によって識字率が向上し、大衆が書き言葉を自由に操るようになったことは、知識が大衆化されたということです。かつて階級や身分制度の明確であった時代には、支配階級だけが言葉(書き言葉)を占有して、言葉を支配するものが社会を支配していたわけです。ところが近代化とともに、言葉(書き言葉)は大衆に広く流布し消費されるようになります。

古代に書き言葉が発生して以来、人間は言葉を占有した者たちが、世界を支配する構造をつくってきたといってよいのではないでしょうか。現在でも、言葉の支配が世界の支配である構造は変わっていないのだろうと思います。では、何が変わったのでしょうか?少なくとも民主主義や自由主義と呼ばれている政治体制のもとでは、固定した既存階級だけが言葉を占有するという社会構造が崩れたのだといえます。けれども、富裕層と知識層はほぼリンクしており、知識が平等に大衆化したなどとは到底言えません。前近代に比べると、いくらか自由になったというにすぎません。

いったい何が起こっているのかについては、プラスでもありマイナスでもある両義的な見方が必要とされているはずです。オプティミスティックな教育理念からいえば、だれでもが知識を獲得することは、それだけ人間を自由にするとみなされます。インターネットの普及は、知識(言葉)の拡散や平等性を保証するかのようにみえます。けれども、言葉(知識)を獲得すること、それ自体が自由への切符だいうのは、まったくお目出度い楽観主義だともいえます。人間は、言葉によって歓喜し、言葉によって慰められ、言葉によって希望をもち、言葉によって救われるものです。けれどもまた同時に、人間は、言葉のために傷つき、言葉のために憎悪し、言葉のために差別し、言葉のために殺戮するものでもあります。言葉は両刃の刃です。

初源の自然へと還ること、あるいは神にすべてを委ねた時代へ戻ること、人間が再びエデンの楽園へ戻ることは不可能です。わたしたちはこの認識を、ホッファーとともに共有することができるでしょう。イブとアダムは、禁断の知恵の実を「すでに」食べてしまったのです。それは元へは戻りません。ただ、もしかしたらいつの日か、ほんとうに人間が神を凌駕するようになった日には、すでに食べてしまった知恵の実の毒が、解毒されるということが起こるのかもしれません。けれども、だからといって、神を凌駕するなどという大胆不遜な目論見が、いつかほんとうに成就するのかどうか、それはだれにもわかりません。

※『 』内は、「現代という時代の気質」エリック・ホッファー(柄谷行人訳)からの引用です。


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