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【映画】西の魔女が死んだ の感想と解説

前書き

「何のために生き、そして死ぬのだろう?」
誰もが一度は考えた事がある疑問だ。
マイ(東の魔女)は、祖母(西の魔女)に問う。

「それは体験をするためだ」
と言う。

人間は何も持たず生まれて来て、何も持たず死に去る。

ある意味で「体験」を得る以外、人生における意義は
無いのかもしれない。

そうだとすると、この映画の中で2人が「体験」した事は、
そしてその意味とは一体何だったのであろうか?


2人の「体験」が意味したこと


自分のやってる事、考えている事が正しいと
誰しもが考えてしまう事ではないだろうか?

ある根拠に基づいて正統性を主張したとしても
不和が生まれるだけで誰も幸福になる事などはない。

自分にとっての正統性は
相手にとっての正統性ではない。

この法則を理解するにはマイにはまだ「体験」が
足りなかった。
無作法なゲンジに激しく反応してしまう原因と
ここに来た原因も同じ事だ。

彼女はクラスに馴染む事を辞めた。
クラスに馴染む事で被らなければならない仮面に
疑問を感じたからだ。
仮面を付けて演じてる間、クラスで安らぎを得ることが
出来なくなった彼女は、不登校(エスケイプ)する事を選んだのだった。

彼女は生きて来た世界の中で刷り込まれてきた価値観、
自分の正統性を主張する気持ちを抑えられずにいた。
そして、その気持ちを爆発させてしまう。

祖母も又、マイにつられて激しく反応してしまうのだった。
それは、且つてマイの母親に対してもしてしまった反応と同じモノだった。
彼女は老齢ではあったがマイと同じ「体験」が足りなかったのだ。

祖母とマイはしこりを残したまま別れるが
2人は出会う前より成長して別れた様に思える。

それは互いに自らが掲げて下せなかった正統性の御旗を降ろす事が
出来るようになったと思われるからだ。

祖母はマイの母親に対して前より柔和に接する事が出来るようになり
マイは新しい学校で自分の立ち位置を見つけ、振舞えるようになった。

別れ方は切ないように思える。
しかし互いに必要な「体験」を積み終えたのであろう。
祖母は山に残り、マイは町に降り
互いに必要な「体験」を積むために2年の月日が流れた。
マイは祖母の訃報を知る事になる。

悲しさもあるが且つての約束(魂の存在を知らせる事)が
果たされた事にマイは驚き、その奇跡により
自らが持つ魔女の力に確信を持つのであった。

後書き

魔女の生き方や思想に自らの理想を重ねて、
この映画が人生のお手本や攻略本、マイバイブルになった人も
少なくなかったんじゃないかと思います。

私も大きな宇宙観やそれを支える。
監督やサチ・パーカーを始めとした役者の深い技量に
舌を巻くばかりです。

一度と言わず何度見ても新しい切り口がある良い映画だと思いました。

折を見て、見返そうと思います。
皆さんも如何でしょうか?

それでは!


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