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言葉を扱うって難しい

全ての人の心情に配慮した情報発信はとても難しいと感じています。

ネット上で発信されている誰かの言葉に勇気をもらうこともあれば、救われることもありますし、未来への希望が持てることもあります。その反面、ネット上の誰かの言葉で胸がざわつくことや、何か自分が否定されているような気がすること、傷ついたと感じるようなこともあります。

言葉の多面性が難しさを生み出す

言葉は愛でも憎悪でもあり、希望でも絶望でもあり、喜びでも悲しみでもあり、快楽でも苦しみでもあり、あらゆる表情を持っています。そして、言葉は発信者の意図ではなく、読み手の心情に合わせて表情が変わるという特性があります。

発信者的には希望を込めたメッセージだとしても、読み手にとっては絶望的なメッセージであるなんてことも起きるわけです。

自己責任論が生み出す希望と絶望

例えば、自己責任論は分かりやすく希望にも絶望にもなる言葉です。

「何が起きても全ては自己責任だから、誰のせいにもせず、自分の人生をしっかりと引き受けていくことが大事」

これから何かに挑戦しようとしている人にとっては気が引き締まる言葉かもしれません。人生が軌道に乗ってきたと感じてる人であれば、これまでの努力が報われたと感じられる言葉かもしれません。

しかし、自分自身や大事な人に大きな不幸が降りかかったタイミングでこの言葉を投げかけられたらどうでしょうか。「こんなことまで自己責任だなんて人生理不尽すぎる。」なんてことを感じるかもしれません。「仮に自己責任だったとしたら、それを回避できなかった自分の無力さに絶望してしまう。」なんてこともあるでしょう。

もう一つ例を挙げます。僕が普段から発信しているメッセージについてです。

希望を伝えたいだけなのに

「誰にでも才能はあって、才能を自覚し活かすことができれば、理想的な人生を実現していける」

この言葉を受けて「私には才能はないと思ってたけど、私にも才能はあるんだ!」と希望を持ってくださる人がいます。

その反面「これまで才能や資質を活かすってことを学んでやってきたけど、ぜんぜん理想通りになってない。やっぱり自分には才能なんてないんだ。」とか「才能があるはずなのにここまでの人生が理想通りになってないって、私のこれまでの努力はなんだったの?私のこれまでの人生を否定する気なの?」という解釈をする方もいます。

僕の意図としては、希望を持って進んで欲しいと思ってのメッセージなのですが、そのメッセージで自己否定してしまう人もいるのが現実なんです。

伝え方を工夫すればどうにかなるのか?

伝え方をどうにかすれば、誰も傷つけずに済むかもしれません。例外や補足をたくさん入れれば、あらゆる人たちに配慮した文章は書けるかもしれません。ただ、回りくどい文章になってしまうので、本来伝えたかった希望や期待まで伝わりにくくなってしまいます。

多方面に配慮しすぎると、何を言いたいかよくわからない文章になり、誰のためにもならないという本末転倒なことが起きてしまうんです。

僕ができる精一杯のこと

読み手の受け取り方をこちらでコントロールすることはできません。希望を伝えるつもりの言葉が絶望として伝わることも完全に回避することはできません。

分かりやすいメッセージ、かつ、誰も傷つけない優しさに溢れる文章を書ける人も稀にいますが、少なくとも今の僕はそのレベルには達していません。

その中で僕にできる精一杯のことは、誰かを奮い立たせる言葉は同時に誰かを傷つけている可能性があるという自覚を持つこと。そして、それを分かった上でも伝えたいと思える言葉だけを誠実に伝えていくことだと思っています。

いつかは誰も傷つけない文章を書けるようになりたいものです。

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