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「聴いている」「わかっている」と思える?

「わかっているかどうか」っていうのについて、すごくこだわってしまうのだけど、それと同様に「聴いてもらえているかどうか」にもこだわってしまう。

それは私自身「聴けていない」のを何回も自覚してきているからで、キャリコンの講座などで「聴く」練習をしてきていたり、ODの講座やSIYなどで「聴いてもらう」体験をしてきているからで。
自分がちゃんと聴けてない前提で聴く努力して聴こうとしても、それでも聴けないものだと知っているからで。
聴きたいと思って聞いていると、聴きたい話をひきだそうとしたり誘導になったりとかして聴けてなくなるし、聞いて役に立ちたいとか思ってしまうと聴いてなくて伝えたいように話してしまったりする。
「聴けてる」と思えることなんて全然ない。

なので、「聴いてる」って断言すること自体に違和感あるのかもしれない。
聴く気なさそうな反応しているのに「聴いている」っていうのとか、ただ「聞いている」だけなのに「ちゃんと聴いている」っていうのとかはほんともやっといらっとする。

先日会社でベテランの方と話していたときに、面談や1on1の話になって
「聴いている、聴く気がある、というなら、話しやすくするようにしてほしい」
などと言っていたら
「それは期待しすぎ、求めすぎ」
と言われたのだけど。

「聴く」ということについての理想が高いのは認めるけど(でも多分人材開発とか組織開発の分野では当たり前の感覚だと思う)、そのように聴いてほしい、そういう聴き方をするべきだ、と言いたいのではなくて。
なので、期待しているとか求めているのではないのだけど。

そういう風に聴いてほしい、ではなくて、「聴けている」と思ってほしくない、断言してほしくない、ってところが言いたかったんだなと、今さらながら気づいた。
(聴いてもらう人が「聴いてもらえてる」って思ってるときは、聴けたと言ってもいいとは思うけど。)

聴けてない、わかってない前提でいる。
かんたんに聴けてるとかわかってるとか思わない。
というのが、私のこだわっているところなのかもしれない。

できてないから余計こだわるのかもしれない。
自分がこだわるのはいいけど、それを押しつけないように気をつけないとな。
(でも、聴く立場の人にはこだわってほしいとも思うのだけど。)

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