見出し画像

正義のぶつけ合いの世界をちょっと憂いてみる

SNS上(特にX)に溢れる誹謗中傷や他者否定を見てるとうんざりする。

生産的な議論や真っ当な批判ならいいのだけど、匿名なのをいいことに人を攻撃し放題。誹謗中傷が原因で自ら命を断つ人たちがいることも周知の事実なのに、それでもなくならない。

最近だと、年始の震災関連や有名芸能人の異性問題に関してネット上で暴風雨が吹き荒れている。賛成したい、擁護したい、否定したい、気に食わない、気持ち悪いという感情が生まれること自体は人間なので、当然のことかと思う。

ただ、本人が関係ないところで擁護派と否定派がばちばちやってるのを見るとなすごく残念な気持ちになる。自分に関係ないことに首突っ込んで、関係ない第三者同士で喧嘩しているだけなのである。(※それを見て残念がってる自分も、他者の事情に首を突っ込んでいるということは認めます。)

なぜ、他人を攻撃したくなってしまうのか?

ストレス発散、匿名だから大丈夫という心理(※実際は開示請求でばれるけど)、単純に自分がイラッときたから反射的に、特定の事象を攻撃することで多くの人に共感してもらえるから、などいろんな事情はあるだろう。

だが、幼少期から「人を傷つけてはいけません。」と教育されてきた人々がなぜこんなにも攻撃し合って傷つけてしまうのだろうか。

傷つけている自覚があって攻撃している訳ではないのかもしれない

これは僕の推測でしかないが、他者を攻撃してる人や誹謗中傷している人は人を攻撃しているという意識はあまりないと思われる。

攻撃しているという自覚を持ちながら人を攻撃し傷つけている人は、よほど相手や世界に恨みがあるかサイコパスな人だと思うが、多くの人はそうではないだろう。

攻撃しているのではなく、自分の正義を主張してるだけだから自分は悪くない

こんな心理が背景に隠れているのではないだろうか。

間違いは正すべき。
社会的な正解に反しているものは裁くべき。
正義は勝つべき。

などなど。子どもの頃からいたるところで「正義は勝つ」といったストーリーを見すぎている影響か、正義の主張は悪くない、悪者は倒していい。という前提を持つ人が多いのであろう。

※子どもの頃に誰もが通るアンパンマンも勧善懲悪を感じさせるストーリーなので、「正義は勝つべき」といった考えが根深くなるのは仕方ないとも思う。

この前提があるからこそ、自分の正義を相手に伝えること(=客観的に見たら誹謗中傷だとしても)は悪くない、相手が正義の主張を受けて悔い改めるべきだ。といった感覚が生まれているのではないか。

僕の目から見たら喧嘩に見えることも、当人同士では正義のぶつけ合いで、人を傷つけようとしているのではなく、相手を正そうとしているだけなのかもしれない。

もし他者を攻撃、誹謗中傷している人たちの心理がこのようなものだとしたら、攻撃や誹謗中傷がなくなる理由はないだろう。

正義をぶつけ合う限り、人は人を傷つけ続ける

こんなの周知の事実だと思うのだが、それでも僕たちは正義をぶつけ合うのをやめられない。

聖書の一節にある「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」というエピソードの中では誰も石を投げることはなかったとされているが、今の時代だと平気で石を投げる人が現れるのだろう。

「姦通の女」ヨハネによる福音書第8章3〜11節

聖書の中に、姦通罪で捕らえられた女性をめぐって、主イエスと律法学者たちが対決する場面があります。旧約の律法では、姦通罪は石打ちの死刑にされることになっていました。判断を求められた主イエスは「あなたたちの中で罪を犯したことのない者が、まず石を投げなさい」と言いました。すると年長者から始まって一人また一人と立ち去ってしまい、誰も女に石を投げることができませんでした。

引用元:きょうも読書
「罪のない者だけが石を投げよ」 ヨハネによる福音書

とてもとても悲しいし、見ているのも辛くなる。(※SNS、週刊誌、ワイドショーなどを見るのやめたら何の問題ないということは分かってます。)

思うのは自由、自分の中の正義も自由、だけどそれを伝えるかどうかは一息おいて

自分の考えと違う人がいるのはある意味当然。さらに僕たちは感情を持っている生き物だから嫌悪感、怒り、相手を正したい、いなくなった方がこの世のためなんて考える正義感を感じるのもある意味当然のこと。ただ、それを相手にぶつけて正そうとしたり、共感が欲しくて他人を貶めたりするのは何かが違う。

どうしても人に言いたければ、多くの人に届く可能性のある場所ではなく個人的な関係や閉じられたコミュニティの中で誰かに自分の正義をぶつけるのがいいんじゃないだろうか。

自分の生き方を見直す糧にしよう

正義感は不特定多数にばら撒いたり、当事者にぶつけたりしてしまうことで、人を傷つけることや争いの元になるが、自分の生き方を見直す糧にすれば誰にも害はない。

特定の出来事や物事、人に対する正義感や不快感は、これまでの自分が良かれと思って大事にしてきた感覚に反するもの、不一致なものとも言える。

今までの自分に反するもの、不一致なものを受け入れるまではいかなくとも、理解することができれば、今後そこに対して嫌な不快感や嫌悪感を覚えることは減っていくだろうし、罰したい、正したいという気持ちも薄れてくるだろう。

そういう意味では、他者への怒り、嫌悪感、正義感が湧くシーンというのは自分を成長させてくれる糧にもなるのかと思います。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?