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ピンピンコロリは幸せか?

もしも自分の死に方を指定できるとするならば「ピンピンコロリで死にたい。」という考えを持つ人は多いのではなかろうか。

ウィキペディアによるとピンピンコロリはこのように定義されている。

寿命と健康寿命の差の無さを言い表した表現で、「亡くなる直前まで病気に苦しむことなく、元気に長生きし、最後は寝込まずにコロリと死ぬこと」という健康的な死に方を意味する言葉。略してPPKという。

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%83%94%E3%83%B3%E3%83%94%E3%83%B3%E3%82%B3%E3%83%AD%E3%83%AA

この度、父が急に亡くなってしまったのだが、今回のケースは世間一般で言えば一応ピンピンコロリに該当するような状態だ。最期の最期は苦しんだと言え、前日までは普通に暮らしていた訳だし。

▼ことの経緯はこちら▼

かくいう僕もピンピンコロリが理想だと思って生きてきた

僕の両親もピンピンコロリで逝ってもらいたいと思っていたし、自分自身に関してもピンピンコロリでこの世に別れを告げたいと思っていた。

だけど、今回の経験を通して、大事なことはそこではないと思ってしまった。

ピンピンコロリを求める背景には要介護状態になりたくない、認知症になりたくないといった想いがあるように思う。

もう一歩踏み込むと、要介護状態、認知症など自分のことがよく分からない状態になり尊厳を失ってしまうこと、全身管だらけで何も分からない中で死を待つ終末期医療を受けることへの抵抗、心理的・物理的・金銭的に家族に迷惑をかけてしまうことを避けたいといった想いがあるのだろう。

実際のところ、自分の尊厳を失うことや家族に迷惑をかけることを喜んで選択する人はいないはず。また、残される家族側としても積極的に介護をしたい、認知症大歓迎という人も少ないはずだ。

だから、ピンピンコロリがいいと思ってしまいがちなのだが、ピンピンコロリもそれはそれで遺恨を残すことになる。

特に残された身内には大きな影響がある。突然、家族を失ったことへの衝撃。親交があった人たちへの衝撃。母に関しては、半生を共にしてきた人を亡くしている訳で、悲しみ・喪失感は計り知れないだろう。僕ごときが理解できる範疇にもない。

そして、家業を含む相続などの現実的問題もある。我が家の場合は父も母もしっかりしているので、相続に関して曖昧な部分は少ない方だと思うのだが、それでもよく分からないことだらけでなかなか大変である。

そんなことはどうでもいい

厳密に言えばどうでもよくはないし、現実的・心理的苦労はあるのだが(※主に母)、今回、論点にしたい話はここではない。

ピンピンコロリで亡くなったとしても、要介護・認知症などで家族に負担をかけてから亡くなったとしても、「死」という現象自体は同じものである。

どんな死に方をしようが、残される側には大なり小なり影響がある。悲しみや衝撃といった心理的なこと。相続など現実的・物理的・金銭的なこと。程度の差はあれ、やらなければいけないことはそう変わりない。

その中でどうすれば、死ぬ側・残される側共に幸せでいられるか?特に残される側のその後の人生を充実させるにはどういう生き方、在り方、やり方が理想的なのか?を今回深く考えることになった。

死生観を明確に

僕がこの経験を通して感じたことは、死ぬ側だとしても残される側だとしても「死に方が大事」なのではなく「死生観を持つことが大事」ということである。

多くの先人が死生観の重要性を説いてくださっているが、どこか僕の中では現実味のないものだった。ただ、父という僕の根源である存在を失って死生観を持つ意義が分かってきた。

死んだ人がその後どうなっていくのかは宗教的な話や魂的な話を聞いたことがある程度で、真実はぶっちゃけ分からないし解き明かしようもない。しかし、残された側のことは同じ現実世界を生きる人間としてある程度は理解できる。

だから、大切な人が死ぬとして、自分自身が死ぬとして、どのような状態が理想的であるか?を思い描くことが大事なのではないだろうか。

今すぐ明確な答えが見える訳ではないし、死ぬまで答えが出ないかもしれない。

仮に今、自分が死んだとしたら、残される側にかなり大きな遺恨を残してしまうことも想像できる。でも、それは自分がコントロールできる範囲のことではないのでどうしようもない。

コントロールできないし、与える影響も予期できないからこそ、自分がどう死んでいくのか?を明確に思い描くこと、「死」に対する臨場感を高めていくこと。

その逆もしかりで、大事な人にもし「死」が訪れたとしたら、自分はどう捉えてその後の人生をどう生きるのか。

死ぬ側からの「死」。
残される側からの「死」。
これら両方の「死」を明確にイメージする中で、今をどう生きるのかが見えてくると思うから。

「死」というものは誰にでも訪れるものであり、当たり前に存在する概念だと理解していたつもりだったが、僕は自分が思っていた以上に「死」と真剣に向き合っていなかった。

これからの人生では「どう生きるのか?」と同じくらい、「どう死ぬのか?」を大事にしたいと思った次第である。

ピンピンコロリ。
大往生。
家族に負担をかけながらこの世と別れる。
想定外の形でこの世との決別。

どんな結末を迎えるにしろ、自分自身が後悔しない生き方を選びたい。そして、仮に残される側になった時もその後の人生を後悔なきよう生き抜きたい。

だからこそ、「死」を真剣に捉えたい。

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