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『天気の子』と感傷

この記事には『天気の子』のネタバレが含まれます。





 率直に、書きたいことだけ書きなぐっていこうと思う。

 キャラクターは良かった。設定も音楽も、ストーリーの構成も良かった。エンディングもハッピーエンドで、好みのものだった。

 でも、何かがじわじわと僕の心の中に刺し込まれてくる。帆高と陽菜の関係も、須賀の行動も、泣いて帆高に檄を飛ばした凪も、何もかも僕の中で反芻されて、「なんだろう?」って感じになってしまう。心の表面が『天気の子』という太陽に日焼けして、じりじり痛い。何かが強く問いかけられているというか、観た自分の存在証明をどうしていいかわからないというか。不必要に自分の存在そのものが揺さぶられるような感覚だ。

 この気持ちの正体は何なのだろうか、と1日考えて、たぶんこれだ、というのが見つかった。

 それは、羨ましさだ。

 僕の中には、誰かを強烈に得たり失ったりした感情がないのだ。

 孤独を埋めてくれるパートナー。秘密の企みの相棒。愛する人。たった一人の肉親。僕の人生のなかで、得たことのない人々。
 だから僕は、『天気の子』に完全に感情移入することができずにモヤモヤしている。とても良い映画だったから、その分ただのフィクションとして処理しきれない。「お前にはこんな人たちはいなかっただろう」と自分の人生が問いかけてくる。

 羨ましい。僕も、泣きながらお互いが必要だと思いあえるような人間がほしかった。

 だから、なんだか今、強烈な寂しさを感じている。

 互いを失いたくないと泣いて抱きしめあっていた帆高と陽菜。帆高からもらった指輪がすり抜けてしまって泣き崩れた陽菜。そらから指輪が降ってきて取り乱す帆高。あの指輪のシーンの絶望感は、僕の想像力を遥かに超えていた。すでに大切な人を失ってしまった須賀が流した涙も、頭ではわかったつもりでいて、しかし僕では想像することができないものだった。いっそ、全部に完璧に感情移入できて、泣き崩れたり、ハッピーエンドでまた泣き崩れたりできればよかった。



 世界の在り方を決定的に変えてしまったこと・・・陽菜が「天気の子」をやめて東京を水の底に沈めたことを認めることで、二人は再会を果たした。「俺達は大丈夫だ」と二人は手を握り合って、映画は終わる。

 文句のないハッピーエンドだ。

 けれど、その手前には空を切る僕の手がある。

 僕はいったいどこへ行くのだろう。


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