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人と人のつながりの力で社会をアップデートする-福祉に潜むクリエイティビティ-

2020年2月に開催したSOCIAL WORKERS TALK「やさしいふつうとこれからの働き方」。ソーシャルワーカーズラボが「この人はソーシャルワーカー」だと思っている 安斎勇樹さん、村木厚子さん、櫻本真理さん、大原裕介さんそれぞれのテーマでお話いただいた前半に引き続き、視点が交差し豊かな対話となった後半のクロストーク編をお届けします。


福祉がもつ、異なる個人どうしをつなげる力

目の前のひとりに関心を持ち、人と人のつながりの力で社会をアップデートする ---- ソーシャルワーカーズラボが考えるソーシャルワークの本質に重なるところで、前半では元厚生労働事務次官の村木厚子さんから次のような投げかけがありました。

「日本人は、異なるものとつながる力が弱い」

「日本人は『異なるものとつながる力』が平均を下回っており、平均を大きく上回っている『技術力』や『人のスキル』と対照的です。一方で、AIに代替されない読解力や数的思考力は日本はナンバーワン。自分が能力を発揮するだけじゃなく、いろいろな誰かとつながってものごとを生み出す。その力があったら、もっと前向きの社会を作れる。世界的に見て劣等生の『生産性』や『生活水準』も上向くということかなと思います」(前半より)

対話は、OECDが発表したデータに基づく村木さんの投げかけに対する、安斎さんのフォーカスから始まりました。

安斎
日本はつながる力が弱いというお話、「なるほどな」と納得するとともに、「やばいのでは」と思いました。ぼくは、個々の創造的衝動が発揮されるだけでなく、いかにお互いつながり合いながらチームとしての力を発揮したりプロジェクトが動くかをデザインしている立場なので、日本人がそこが弱いというデータを見て「まじでやばいな」と。

つながる力が弱いという課題は、われわれファシリテーターが取り組むべき当事者なのかなと。そういう意味では、当事者として、大原さんがお話しくださった囲碁のエピソードはすごく刺激的です。それぞれのこだわりや前提、価値観をうまくつなげて、それがお互いを創発する力になったところがすごい。一人ひとりがつながる力を持つことと、つなげる力を持った人が媒体となること、両方が必要なんだろうなと読み取りました。

高機能自閉症で、IQが140ある子がいます。ぼくらも一緒に囲碁やるんですけど、徹底的に打ちのめされるくらい強いんですよ。あるとき、デイサービスに通ってる割と丁寧なケアが必要なおじいちゃんと、誰か囲碁をしてくれないかと言われたときに、この子と対戦させたらどうだろう、と。これ、すごいリスキーなんですよ。子どもが負けたら、「大人げねーぞ」って言って喧嘩になるかもしれない。おじいちゃんが負けたら、「子どもに負けた。私にはもう生きがいがない。」って言い出すかもしれない。

みなさん、どちらが勝ったと思います? 実は、おじいちゃんが勝ったんです。この子、負けてなんて言ったと思います? 負けた瞬間「師匠と呼ばせてください」って言ったんです。

この瞬間、おじいちゃんは、ケアの難しい高齢者じゃなくて、発達障害の子にとって難しい社会的スキルを身につける支援を、囲碁を通じてしてくれるスーパー囲碁指導員になりました。そして、この子が囲碁をするためにおじいちゃんの家に通うようになったので、うちのデイサービスを使わなくてよくなりました。つまり、この子は一人暮らしの高齢男性の見守り介助ができるスーパーボランティア小学生です。

大切なのは、発達障害の誰とか、認知症の誰とかじゃなくて、その人にしかできない役割を見つけること。福祉サービスを必要とする要支援者と呼ばれてる人たちどうしをつなげてみると、価値が生まれます。
社会福祉家 大原裕介 越境の物語 より引用

そこでみなさんに伺いたいことがあります。

つながる力をどうやって育んでいけばいいのか。あるいは、人がつながる力が弱い日本において、つながれる力を発揮していくために何が必要なんでしょうか。みなさんの実践のなかでヒントをがあったら伺いたいと思います。

大原
囲碁の話に言及いただいて、もうひとつエピソードをお話したいと思います。つながりを阻害する要因に、弱いところを隠したい人の気持ちがあるのではないかというお話です。

学生時代にボランティアセンターをつくったとき、さまざまな障がいや不登校で困っている親御さんにたくさん巡り合いました。困っている声に応えてセンターをつくって、電話を引いて、ビラも配って、「いつでもSOS出してください」と開いた。困っている人の数はある程度、把握していましたし、ほかに障がいのあるお子さんが使える福祉サービスはなかった。だから、オープンしたらすぐ来るだろうと思ったんですけど、一向に来なかったんです。

整えられるラインは全部引いたんですけど、つながらなかったんです。

そこで、親御さんたちの話し合いを聞くと理由がわかった。一つは、学生に預ける勇気がないということ。これは声としては小さかった。大きかった声は「こんな目立つ場所じゃなくて人目のつかないところにやってほしい」だったんです。

ぼくらは「悪いことはしていないし、それはおかしい」と。でも、わずか17、8年前の農村地区では障がいのある子が生まれたことで「あそこにそういう嫁さんが来たからそうなった」とか、いわれのない言葉を浴びせられてお母さんたちは深く傷ついていたんですね。

ぼくはそれでも、一貫して「むしろこの子たちをどんどん外に出していきたい」「どんどん発信していきましょうよ、この子の存在を」って取り組んでいったんですが、反対され続けました。それでもぼくらは、まちに開くことをしぶとく続けていった。狭い建物にずっといるんじゃなくて、スーパーマーケットに行ったり、電車に乗ったり、子どもたちと外に出ていく過ごし方を実践していたある日、一番反対していたお母さんがぼくらのところに来て、言ったんです。

「スーパーマーケットで、知らない白髪のご高齢の方に、いきなり『大きくなったね』って息子が声をかけられた。大原さん、その人知ってる?」と。すぐにピンときて、「それは商店街の○○さんじゃない?」って答えたら、「あ、そうなの」って、お母さんの肩に入っていた力がサラッと抜けた感じたしたんです。自分の子どもを隠しながら生きないといけないと思っていたお母さんが、何気なく行ったスーパーマーケットで見ず知らずの人に息子の頭をなでられて「大きくなったね」って言われたその言葉で、心が軽くなったんですね。

この出来事から、僕はつながることの豊かさや必要性を感じました。家族の障がいを隠そうとしてSOSを出さず、弱さを一人で抱え込むのではなく、公開していくことがつながりをつくり、人を強くし、それが自分に返ってくる。つながるって、依存することの心地よさに触れていくことなんじゃないかなと思います。

村木
そのお母さんが、たった1人との出来事で心が軽くなったように、つながるって何も大人数じゃなくていいんだ、という話をしたいと思います。

サッカーが日本で人気になった頃に、Jリーグに勤める同級生が浦和レッズがサポーターを集める方法を教えてくれたんです。最小グループは3人で、ちっちゃくて良くて、形だけでいいからスタジアムに来てサッカーを見てもらうことから始めるんだ、と。

そうやって最初の一歩のハードルを下げることと、もう一つは、「サッカーを好きになってくれ」とは言わないんだそうです。サッカーを見たあとの飲み会が好きとか、この服が着たいからとか、別の理由でいいんだって。違う要素とのかけ合わせって参考になるなと思います。取り組んでいるプロジェクトの応援を、たまたま「ミュージカルとコラボしよう」って言われてやったら、普段だったら絶対来てくれない人がいっぱい来てくれたりして、すごい面白かったことがあります。福祉も「障がい者だから」「高齢者だから」じゃなくて、住宅だとか、◯◯が好きな人とか、別の軸が入ったらすごく面白いかなって。そうしたら無理せずに仲間がつくれるのかなって思ってます。

櫻本
大原さんのお話に登場したお母さんももしかしたらそうだったのかもしれませんが、メンタルに不調を抱えている人は、自分の価値を低く感じてしまう。人に迷惑をかける存在であるっていう感覚に陥ってしまって、思考能力も低下し、つながろうとするエネルギーが枯渇し、どうやってつながればいいかわからなくなってしまいます。本当は、助けを求めなきゃいけないのに、逆に孤立してしまうんですね。自分を閉ざして、自分の世界に入ってしまってつながれなくなるっていうのが鬱病だったりします。だから、孤立をなくすことがメンタルヘルスの問題を減らす方法だと思って、私の会社は「やさしさでつながる社会を作る」という言葉を理念に置いています。

じゃあどうしたらつながれるのかといった時に、わからないことを減らすことが大事なんじゃないかと。

助けを求められないときって、自分がどうしたいのか、未来や今起きていることがわからない、不安なときだと思うんです。どうやって助けを求めていいかもわからないし、相手がどんな反応をするのかがわからない。それが怖い。わからないことが多いと、助けを求めることができません。

逆に助けたいと思っている方も、日本人って特に優しいし、人を傷つけることに過度に過敏なので、この人が本当に助けを求めているのかどうかわからないっていう状態のときに、助けようと思えない。もしかしたら単に静かにしたいだけかもしれないし、みたいなリスクがあると助けられない。

そういう意味ではお互いにわかることを増やしていくっていうのがつながるためのハードルを下げるんじゃないかなと思っていて、そのための手段が対話であり、フタを外すであり、衝動を外に出していくプロセスなのかなと思っていました。

安斎
ありがとうございます。みなさん、すごくやさしい回答だなと思いました。

「日本人はつながる力が弱い」という課題の解釈はいろいろあると思うんですけど、個人の力でなんとかしないといけない問題なのかと思いきや、みなさんが語られたことには、「能力を上げなさい」じゃなくて、つながるコストを下げたり、つながってもいいんだって思えるようにしたり、環境や空気の力で促していけるんじゃないかっていう前提がある。やさしい前向きな指針だなと思って共感しました。


衝動を生かせる創造的な社会・働き方をつくるには

村木
映画の「ストーリー・オブ・マイライフ」のキャッチコピーに、「今日も“自分らしく”を連れていく」ってあったのを、櫻本さんのcotreeとcoachEDの物語を聞きながら思い出して。安斎さんの言葉で言うなら衝動にフタをしない。すごい大事だと思うんですが、大学で1年生の女の子たちを教えていて、入学したときは割と個性的な自己紹介をしていた子たちが、だんだん言わなくなるんです。周りをこう見るようになって、目立たなくなるんですね。そうやっていったら、きっとあとの人生が楽しくならないんじゃないかってとても心配をしてるんですけど、彼女たちの衝動をちょっと自由にできる考え方はないか、教えていただきたいんです。

大原
衝動って言うと、ぼくら福祉専門職はADHDとか診断をつけて衝動的な行動を抑制することを是としてしまうようなところもあるんですけれども。障がいのある人たちが持っている衝動性や表現、行動を、安斎さんのような方が違う角度から触れたときどういうふうに思うんでしょうか?

安斎
うちのメンバーにはADHDのデザイナーやファシリテーターがいます。障がい者手帳を持っている人もいますけど、創造性がすごいんです。イノベーションのプロジェクトには絶対アサインする。そうすると、当たり前をぶち壊すんです。

新しいものが生まれるときって、それまでの文脈、これが当たり前だよねって思ってたものに対してズレや誤解が出たり、論理的に導けない何かが起きるんですよね。「AならCのはずなのにBになった」みたいなことが社会をアップデートしていくんです。「衝動」という言葉は、100年前の教育哲学者ジョン・デューイから引いてるんですけど、デューイは「衝動は古い集団から逸脱するエネルギーだ。そこに知性を組み合わせると新しい目的になる」って言ってるんですね。

古い目的とか当たり前に囚われてしまっている人って、逸脱することが難しいです。そういう時に、多動性・衝動性・注意欠陥のあるADHDのメンバーを「全力で行っていい」みたいな感じで解放します。コーヒーはこぼすけど、妥当だと考えていた提案が「そうじゃないかもしれない」と気づかされたりします。

ミスとか誤解とかって、ぼくは本当にクリエイティビティの根元だと思っていて。人から言われた何かをちょっと勘違いして解釈したときに一番アイディアが生まれるんですよね。誰かが言ったことを100%理解して100%返したって何も生まれない。こういうことかなって誤解したときに新しいことが生まれたりするので、ちょっとうっかりしてるくらいの方が実はプロジェクトを動かせたりとかして。


福祉とソーシャルワークに潜むクリエイティビティ

櫻本
障がいを持つ方が持つクリエイティビティのお話、とても興味深いのですが、これに関連して村木さんが(イベントの前に)おっしゃっていたことがとても印象的で。ご著書である「かっこいい福祉」が結構尖ったことを言っているので、批判を受けるかもしれないと思いながら書かれたとおっしゃっていたんですね。

福祉の領域ってクリエイティビティとか衝動性みたいなところとちょっと遠いところにあるような感じがします。クリエイティブだったり衝動的であることがすごく叩かれ、攻撃されうるような空気がもしかしてあって。それが新しい取り組みを産むことを阻害しているのかなっていう気がしていて、その阻害しているものっていったい何なんだろう。どうやったら取り除くことができるんだろう。取り除けば、クリエイティブな営みが福祉という領域の中に起こっていくんだろうなと思ったときに、みなさんが考えられる福祉における「フタの外し方」であったり「フタの存在の背景」についてお聞きしてみたいなと思いました。

村木
「かっこいい福祉」っていう書名は、出版社の人が「これでいきましょう」って言ったんだけど、正統派福祉の人からすると、そんなチャラチャラしたもんじゃない、かっこつけてる分野じゃないだろって言われそうな気がしてビビってたんですよね。でも、私が思っているのは、今の福祉って制度がすごい整ってきたので、その制度を言われた通りにやると限られちゃうということ。

だから、もう一回、目の前の人が必要としていることや、人の人生とか暮らしとかに寄り添ったら、制度にないものが必ずニーズとして出てくるんじゃないか。それを形にする努力をすると、結果として新しい制度をつくることもなるし、地域をつくることにもなる。そういうふうにしたいなってずっと思ってるんですね。だから、どうしたら「決められたことをやる」発想から変わるのかを私も探しているんです。何があったらそういうことができるのか教えてもらいたい。

大原
ぼくは福祉っていう言葉は嫌いじゃない。好きなんですよむしろ。ただ、「福祉」という言葉が職業や業態、「ソーシャルワーク」という言葉も福祉業界における職種を表す言葉になっているけれど、「社会に向けて働く」ぐらいシンプルな定義でいいと思ってるんですよ。

もう少し掘り下げると、福祉って人の生き方としての思想に近い。なぜそう思うかというと、福祉学科を卒業して「社会をよくしたい」と就職した若者が、複雑な制度の中で苦しくなってる現実があるんです。目の前に困っている人がいたら手を差し伸べる。自分だけでできなければ、チームを作る。チームでできなければ、みたいなですね。やろうとすることはシンプルで、そこに自分がいて相手がいて自分がいる。創意工夫や自分の限界や、それでも失敗を恐れずにやるというような人として当たり前の働き方を、これからの時代により必要とされるであろう働き方を呼び起こそうというときに、お三方や、今日来ていただいている若者のみなさんに、福祉という仕事を見つめてもらうことに価値があると思ったんです。

櫻本
お話をうかがっていて、福祉が保守的だと感じていたのは制度のことなんだと気づきました。現実に制度が追いつくのって時間がかかるし、制度を変えるのはとても大変なんだけれども、制度の外でもいろいろ試せるんですよね。

私たちもそうで、カウンセリングが医療制度のなかに溶けこむのは保険点数上すごく難しいから、病院でカウンセリングで受けられるようにするには時間がかかるんだけれども、ITを使って誰にでも届くシステムとサービスをつくることはできる。株式会社でやってますし、一般的には福祉と呼べるかはわからないけれども、やりたいことは福祉の領域で行われてる「困っている人を助けたい」「社会をよくしたい」ことと変わらない。なんとなく私の中で福祉と聞くと制度を思い浮かべる偏見があって、それに囚われていたかなと思いました。その上で、変えられるものと変えられないものを明確にして、変えてられるものを変えようとするチャレンジができる領域なのかもしれないと思います。


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異なる人どうしがつながるハードルを下げること。
人々の衝動を創造性に変換すること。
社会に目を向けながら、目の前で困っている人に手を差しのべること。

4名の「ソーシャルワーカー」の対話から、福祉の仕事やソーシャルワークがもつ、これからの社会に必要なはたらきが浮き彫りになってくるクロストークだったように思います。

ソーシャルワーカーズラボでは、2021年1月から3月まで再びさまざまなゲストをお迎えし、SOCIAL WORKERS TALK2020を開催し、多様な角度から福祉やソーシャルワークに光をあてていきます。

2年目となる今回のテーマは「福祉の周辺」。「福祉の周辺」とも呼べるような位置に立って活動しているゲストたちが、まちづくり、建築、デザイン、家族、シェアなど多様な観点から「福祉」と「福祉外」という線引きを問い直します。

1月16日に開催したvol.1「まちづくりと福祉」は、250名を越える皆さんにご参加いただき、たいへん盛況な会となりました。

2月13日に開催するvol.2「福祉を超える」では、昨年のイベントに引き続き、大原裕介さん、村木厚子さんにご登壇いただきます。そのお二人に、社会活動家の湯浅誠さんが加わってのクロストークを行います。vol.2-3 もどうぞご期待ください。


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<各イベントのお申込み>
SOCIAL WORKERS TALK 2020 「福祉の周辺」

 ■vol.2 福祉を超える /2021年2⽉13⽇(⼟) 14:00〜16:00

■Vol.3 家族と福祉 2021年3月6日(土)14:00〜16:00


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<公式サイト>
SOCIAL WORKERS LAB


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